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『現代小説のレッスン』で考えたことつづき。

『現代小説のレッスン』のつづき。 今まで考えてきたことは、どうして小説とそれ以外の散文(批評とか評論とか思想の本とか・・・)は書き分けられなければならないのだろうか、ということだった。

それはフィクションとノンフィクションの違いだ、という答えではないだろう。

評論だって仮説をもとに論理を構築していくことはきっとフィクショナルな作業だろうし、逆に事実を書き連ねた小説というのも存在する。

ノンフィクションというジャンルにしても、小説と近似なものは大量にある。 『現代小説のレッスン』を読み気がついたのは、まさに時間の存在であって、小説には時間が流れ、評論には逆に時間は排除されるということだろう(保坂和志の章を参照)。

たぶん評論については時間は不必要で、むしろあってはならないもので、極端に言えば数行で文章すら終わってしまうことが望ましいのだろう。

ある結論、提示したい主題が存在し、それを従前に提示するために論理を駆使する文章。

だから主題さえ提示されればよい。

しかし小説は違うのだ。たぶん。

保坂和志に代表されるように、小説のかたち、つまり単一の言葉ではなく様々な人たち、描写、そういった要素が並列に存在しながらコミュニケーション(コミュニケーションできない、というコミュニケーションもあるだろう)を深めていき、それが時間によって変化する。

そのダイナミズムなりを作者そして読者が総体として感じる。

それが小説なんだろうなあ、と思った。 私は自身が小説を書くときがあるのならば、いかに「小説」らしい小説でなくするか。

それを考えていて、ひとつの方法として漠然とながらも、評論みたいな小説を書きたいと思っていたのだが、それはそれでかなり仕掛けをつくらないとこの時間の問題をクリアできないだろう。

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