『いま私たちが考えるべきこと』橋本治
橋本治は私にとっては信用すべき作家(評論家)のひとりであって、基本的に文庫、新書が出たら読むようにしている。
この本も新潮文庫から出ていてすぐ買って読んだ。
で、信用すべきと言っても決して橋本治は何かをわかりやすく解釈したり説明したりしてくれない。
というよりも、むしろわかりやすそうなことをあえて難しくしてしまう。
文章は平明だ。
平明を通り過ぎて語り口調となっていて読みやすい。
読みやすいはずなんだがいつのまにかわけが分からなくなる。
一般的な評論が言いたいこと=テーマがあり、そこに向かって論理的な文章を積み重ねていくものとすると、橋本治の評論は結果的に全文が言いたいことになっている。
つまり決して何かを説明するために文章を書いているわけではなくて、むしろ自分の思考を文章で公開しているみたいなのだ。
私たちがなにかを考えているときその過程では当然矛盾があり、行ったり戻ったりがあり、脇道があり、どうでもいいことまで思いついたりする。
それがそのまま文章にされているみたいで、そうした場合読んでいる人はどう思うか。
評論に「答え」を求める者(私もそうなんですが)はすこしいらいらする。
なんだよ、さっき言ってたことと違うじゃん、とか、何でいきなりそんなことを言い出すのだ、全く関係ないぜ、とか。
だけどそのうちそれが橋本治のひとつの策略だということに気づきはじめて、最後にはこう言い出す。
「思想」の側も錯覚しているし、「思想を必要とする人」も錯覚しているが、「近代の思想」というものはない。あるのは、「前近代の中に生まれた、近代を用意する思想」だけである。「思想に考えてもらう」が終われば「近代」なんだから、近代は思想を生まないのである。その代わり、近代は「みんなが自分の頭で考える」なのである。だから、こんなにも「考える、考える、考える・・・・・・」ばかりが続いて、「答」というものが一向に出てこない、このややこしい本があるのである。(p248)
誰かが答を出してくれるというのは「前近代」であって、良かれ悪しかれもう昔には戻れない。
いまに生きるわれわれはとにかく自分で考えようぜ、橋本治はずうっとこの本全体で見せ続けていたのだった。
まあそれが答なんだけども。
橋本治は昔の思想家みたいにえらそうではないが、やっぱりえらいなあ。
ところで、ずうっと考えているこの本だが、考えている内容のひとつは「”自分のことを考えろ”と言われるとまず”自分のこと”を考える人」と「”自分のことを考えろ”と言われるとまず”他人のこと”を考える人」の二種類が世の中にいる、というのが大テーマ。
これを巡ってああでもないこうでもないとずうっと考えているのだけれど、これはウィトゲンシュタインの「他者」とつながっている気がする。
ふーむ。どうつながっているのか、もう少し考えないと。
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