『孔子の哲学 「仁」とは何か』石川忠司
『極太!!思想家列伝』で一気に私の中で重要な批評家となった石川忠司の本を探していたら、このタイトルで、孔子かよ、と首をかしげながら手に入れ読み始めた。
結局、いつもの石川忠司なのだが、ただ、やはり孔子についてはあまりにも私が何も知らなすぎ、ましてや「仁」とはなにか、と言われても「仁」について考えてもいなかったので、入り込みづらい部分があり、また、理解しきれないところも多かった。
『論語』を読んでから出直した方がいいかもしれない。
ただ、これから『論語』を読むにあたっても、この本を読んでしまったことで「人生論としての論語」みたいな読み方がきっとできなくなってしまうのだろうなあ。
そういえば、昔むかし、『論語』は読んだような気がする。
『論語』をはじめて読んだ人は、きっと誰もが「至極あたり前のことしか書いてない」と思うに違いない。「親孝行して、広く人間を愛せだって?そうすれば人格的な高みに到達できると言うんだろう?あたり前じゃないか」と。(p133)
たぶん、説教臭を感じつつ私も『論語』を読んだのだと思う。
しかし石川の『論語』の読みは違う。
孔子は高潔な人格者ではなく、むしろ不穏で、あけすけで、まさしく度量の大きな人間だ、という。
「仁」について。
「仁」とは確かに「愛」や真心」かも知れないけれど、しかし人間の内面の奥深くに秘められた心的な場所で進行する隠された過程ではさらさらなく、逆に堂々と天下万民の前にさらけ出された外的かつ公共的なまさに「実体」にほかならない。(p19)
同様に、誰かが社会生活の中で「仁」的な振る舞いを「決心」したとするなら、表情、しぐさ、ものの言い方、言い回し、相手に対するリアクション、そして当の振る舞いが置かれた状況やコンテキストなどから、彼の「仁」を行おうとする「決心」を見てとることは実に容易いだろう。これはもう外的な「現われ」だけで直ちに了解できる事実なのであって、実際ぼくたちはいつもそうやってこの徳目に励みながら、まあたまには失敗もやらかしつつ、同時に他人の「仁」を敏感に察知しながら、日々を遣り繰りして生きている。(p20)
「仁」とは何か、はっきりと別の言葉には置き換えるのはいまの私には難しそうだが、人格とか人間とかパーソナリティとかとりあえずそんなイメージでどうだろうか。
ここで私にとって重要だったのは、先に引用した部分で、章のタイトルに「ぼくたちは明けすけな人間を目指そう」とあるくらいなのだが、これがこのあいだ『考える人』という雑誌で橋本治が高橋源一郎との対談で話していたこととまったくもって同じことを言っていたことだった。
高橋 (略)僕が『蝶のゆくえ』を読ませた女の子とたちが、つまり当人が、「何でこの人は私たちのことがこんなにわかるんですか」って言ってるんですから。
橋本 というか、そんなに自分のことがわかられないと思っているの?って、逆に言いたいぐらいで。
高橋 びっくりする方がおかしいと。
橋本 うん。だって、人はだいたいばれてるものじゃない。そのばれてることを、何となく小出しにしながらつきあいを成り立たせているわけだから、自分が人に分かられるはずがないという前提で人とつき合うのはおかしいじゃない。
この部分を読んだときに私はショックを受けると同時に、楽になったのでした。
いままで、思春期あたりから思っていたことは、生きていくうえで「内面」を大切にしていくためには 仮面をかぶり、ポーカーフェイスでいる方がいろいろ得なのだろう、ということでした。
しかし、むしろそれは無駄で、だいたいばれていて、しかもかえって疲れるだけで、オープンにしておいた方がずっと有利なのだ、ということに目を見開かされたから。
で、今度のこの「明けすけな人間を目指そう」ですから、今更ながらやり方を変えていこうという意を強くいたしました。
確か「内面」というものが発見されたのは近代だった、というのが柄谷行人『日本近代文学の起源』だったが、内面なんてどうだっていいんだ、一本筋を通しておけばなんでもありで生きていった方がいいんじゃないのか(一本筋を通す、ということがニーチェ哲学との差異か)、というのがあまりにおおざっぱではあるけれども、『孔子の哲学』の読後感だった。
後半部分については知識不足が否めず若干ついていけない部分があったが、もちろんそれは石川の文章のせいではない。
また読み直します。
著者の本ってあんまり出ていないから。
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