『今日の芸術』岡本太郎
岡本太郎といえば、私たちの世代では「芸術は爆発だ」と本人が叫ぶ(叫んではいないな、しかし話す、というのでもないし)テレビCMのイメージが刷り込まれており、したがってわけが分からないことが書いてあるという先入観があったが、決してそんなことはない。
というよりもあまりにも論理的で、かつわかりやすい本であった。
書かれたのは1954年だから、戦争が終わってまだ10年経たない頃のことだ。
その中で岡本は新しいということのすばらしさを全面的に掲げる。
そして、芸術は常に新しくなければならない、と言い続ける。
芸術は創造です。だから新しいということは、芸術における至上命令であり、絶対条件です。(p59)
この流行の「創造」と「模倣」の二つの要素が、時代をすすめているのです。だから芸術の新しさを「あれは、たんなる流行だ。うわついた思いつきだ」といって敬遠することはまちがいであり、時代おくれになることです。(p68)
こう言うことを言われると、だいぶ年を取ってきたわたしとしては何となく耳が痛い。
流行というものをそれがファッションであったり歌であったりしても、非常に気にしているにもかかわらず流行に興味を持つことが自分が「うわつい」ているような気がして、斜に構える傾向があるので、逆に流行というもののプラス面を見ていくべきなのかもしれないな、とやや反省したりした。
で、芸術における「新しさ」の重要性について説明したうえで、岡本太郎は次のように宣言する。
今日の芸術は、
うまくあってはいけない。
きれいであってはならない。
ここちよくあってはならない。(p98)
つまり、逆の「うまい」「きれい」「ここちよい」というのは既成の概念に寄りかかっているだけのもので、それは所詮「芸事」にすぎないという。
そしてセザンヌやゴッホ、ピカソの例を引いて、彼らが現われたときはうまくなく、きれいでなく、ここちよいものではなかった、ということを説明してくれる。
時代を経て彼らがうまく、きれいに、ここちよく描いているように見えるだけなのだ、と。
これってけっこうすぐ力になるアドバイスではないだろうか。
自分が心地よいものをつい作ってしまう。
しかしそれを破壊して見慣れないものにしていく。
私が昔大江健三郎に凝っていた頃、大江がロシアフォルマリズムの「異化」という概念をしきりに使っていたのを思い出した。
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