『株式会社という病』平川克美
書店でタイトルが気になり、ぺらぺらとめくったら、その文体に引き込まれてするっと買ってしまった本。
私は勤め人だが、最近、会社で働く、ということはいったいどういうことなんだろう、と何の役にも立たない、しかし原理的な悩みを持っていた。
と書くとかっこよさげだが、要はどうして毎日会社へ行かなくてはいけないんだろう、というどうでもいい疑問を抱いていた。
まえがきでやられた。
思想が思想たり得る条件とは何か。それは、どのような問題にも明確に答えうるような処方を持っていることにあるのではなく、この世の中に生起する様々な問題を、特殊な人間によって、特殊な状況の下で引き起こされたものだといった対蹠的、診断的な処理をしないということであると私は思っている。対蹠的、診断的な処方は、個別遂行的な課題には何らかの効用があるだろうが、習慣を超え、言葉を超え、思考の枠組みそのものを超えて、人性に爪跡を残すことはできない。それは問題を発見したり、解決したりしたのではなく、ただ整理したにすぎないからだ。思想が思想たり得るためには、いかに特殊な事象に見えようが、そこから人間全体の問題につながる普遍性を取り出せるかどうかということであり、そこにこそ思考というものの全重量がかかっている。(p10)
かっこいい。
わかりやすい柄谷行人。
これはオウム事件の問題をどうとらえるか、ということについて述べている部分だが、ここにはずうっと私が抱えていた「感じ」について言葉にされている。
例えば少年が実の親を殺害した事件などがあると、新聞やらテレビは、少年の「心の闇」なんて表現を使って、結局事件は特殊な環境に育った特殊な人間により行われた特殊なものであって、私たちには理解できないし関係ない、というスタンスで報道するたびに、私はずうっと違和感を抱いていた。
それをきちんと言葉にしてくれている、この本は信用できる、と感じた。
で、「株式会社という病」とは何か。
私は、会社の「内部」を貫徹しているものの考え方というものが、私たち個人の考え方や、渡世の常識といわれるものと齟齬をきたし、ときには倒立したものとなっているということに、会社というものの本質的な特徴があるのではないかと思っているのである。(p18)
不二家の事件やライブドアの事件、これらがオウム事件と同じように特殊な個人=経営者によって引き起こされた、と考えて、問題を整理して、はい終わり、というのは簡単だ。
しかし、むしろ株式会社というかたち自体がこういう事件を起こす必然性を持っているとしたら、どうか。
勤め人である私たちが例えばとても倫理的な人間であったとしても、会社という中で組織として行動するときに場合によっては全く逆の非倫理的な行動を取ることが、むしろ会社の倫理としては倫理的に行動することになってしまう、ということだったら、どうか。
勤め人にとって、自分の考えが組織の考えと相反する、なんてことはあまりに自明すぎて、何も感じなくなっているのが事実だ。
どこまで行っても会社の目的とは、利益を最大化するということになる。本質的には会社にはそれ以外の目的は存在していない。そして、その目的は私たち人間の目的でもある。ただし重要なことは、会社にとっては、それが唯一の目的であるが、人間にとってはいくつかある目的のうちのただ一つでしかないということである。(p97)
ひとが、不条理と知りつつこの「会社の命令」に従うのは、利益の最大化をどのようにして合理的に達成してゆくのかという会社の命題に、不思議なことにほとんどの場合、喜々として従うからである。それは、人間というものが一つの目的のために、いくつかある他の目的を見ないようにするということである。(p97)
共同体の価値観が、自分個人の価値観と明らかに異なっている場合においても、自分がそこに帰属している限りは、その価値観から自由になれない。人間はひとつのフレームワークの中にいるとき、そのフレームが作った言葉で思考し、そのフレームが作った価値観でものごとを判断している。そのとき、そのフレーム自体は見えていないのである。人間が組織の価値観に支配されるとは、こういうことだ。(p100)
やっぱりかっこいい。
そのうえぞっとする。
そしてこの本でたぶん最も重要なのはここだ。
教会が呪術的な力を持つように、会社もまた呪術的な力を持っている。いや、人間は自分たちが作り出し、支配していると思っているものによって、支配されるというパラドクスのうちに生きているのである。自分たちが作り出したものとは、すなわち貨幣、法、国家、そして、株式会社といったものである。(p107)
なんか書き写しているだけで自分が頭がよくなったような気もするが、まあそれはどうでもいい。
結論めいたものとして、株式会社の病の根源は所有と経営の分離ということにあるという。
さらに言えば、株主は、会社が道義的であるか、倫理的であるかということにかんして、本当は興味がないというべきだと思う。それでも、会社は時価総額が上がることを望んでいる。私はこの株主と会社との間に存在する共犯関係を「病」と呼んだのである。(p147)
著者はだから、株式会社という制度なんか廃止してしまえ、社会主義化しろ、などと言っているわけではない。
なぜなら、かれも資本主義の中で生き抜くビジネスマンだからである。
しかし、常にこの「病」が株式会社に宿命的に存在することを自覚して生きていくことと、そうしないことは全く違うことなのだろう。
自分の視線のフレームが自分では自覚できない、ということを常に考えながら生活することはつらそうだが、たまには根源的な問いっぽいことを立てるのも必要なことだ。
この本には、私の原理的な悩みとやらの答えは載っていない。
むしろそのことゆえにすばらしい。
自力で考えるしかないのだし、断定的なことを言う人ほど信用できない人はいないから。
大人の選択とは、いつも物事には極端な両論の中間に、様々な色合いを持った意見があり、正しい選択というものはないかもしれないが、いつも最悪の選択を避けながら試行錯誤を続けるしかないということを知るということである。それが、現実と対話をしながらものごとを進めてゆく態度であり、かれの前に真相は、極論と極論の中ほどに現れるのである。(p224)
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