『退屈論』小谷野敦
「人間の不幸は、自分の部屋にじっとしていられないことだ」(パスカル。本書p228)
小谷野敦といえば著者には申し訳ないような気もするがやっぱり『もてない男』だが、私はむしろ『バカのための読書術』を読んで、ああ確かにわたしゃ歴史のこと知らないねえ、歴史の勉強をしなくちゃいけないなあ、と思い、その本で勧められた司馬遼太郎やらの本を買いあさったことのほうが重要だ。
さて、この本だが、内容については野崎歓の解説で、ある程度アウトラインが書かれているので、本文からと取り混ぜて引用する。
私が言いたいのは、「遊びが大切だ」とか「快楽を肯定せよ」とか言われると、もうごく単純な疑問が湧いてくる、ということなのである。それはつまり、
「飽きないか」
ということなのだ。(p13)
(前略)「飽きないか」の問いは反転し、人間はそもそも最初から、飽きていたのではないか、と問い直される。脳が発達し知能が高くなる課程、つまり進化の道筋において、人は必然的に退屈と出会った。幻滅し、うんざりし、飽き飽きするという経験を、進化の「代償」として積まざるを得なくなったのである。そうした見取り図の上に立って、著者は「壮大な仮説」を「炸裂」させる。つまり「退屈」こそが人間をして恋愛、セックスに走らせ、物語や小説に向かわせ、多種多様な遊びに救いを求めさせ、さらには聖なるものや宗教、カルトへと没入させるのではないか、というのだ。(p240解説)
これが著者の言う「唯退屈論」である。あまりにも簡単に要約されてしまっているが、この仮説を豊富な文献に基づいて立証、展開させていく。霊長類学を援用したところはどうも仮説のうえに仮説を立てているようでいまいちぴんと来なかったが、例えば「唯退屈論」からちょっと外れたこんなところはとってもおもしろい。
だが、小説の面白さ、文藝の面白さとは、何であろうか。(p139)
さて、よく考えるなら、このように日常を描いた小説を面白がれるためには、人の世というものがどういうものか、現実に即して知っている必要があるということだ。(p140)
つまり人は、自分自身が経験を積むに従って、その経験の中から取り出された要素を再構成した物語に関心を持つようになるのである。(p141)
ある本を再読して、全く印象が変わってしまう、というときがある。
テキストは当然変わっていないのに、だ。
変わっているのは自分だが、自分の経験した人生によって読後感は当然変わってしまう。
特に『細雪』やジェイン・オースティンの小説(読んだことないけど)といった日常生活を細々と描いた物語は、誰でも引き込まれてしまう冒険小説や活劇系とは違って、年を経た大人の方が退屈しないで読める、というわけだ。
で、仮説に戻って、現代の先進国で「退屈」にどう向かいあうか。
退屈は、先進諸国共通の問題である。しかし、日本人の、退屈から逃れようとする悪あがきの凄まじさは、世界一ではあるまいか。いったいこんなに大量の雑誌が必要なのか、いったいこんな狭い国土にこんなにクルマが必要なのか、そしてなぜ日本では東京という首都にこんなに人が集まるのか。(p215)
それに対する答え。
もっと退屈な社会を作ってもいいのではないか。このまま、高度経済成長期のような、あるいはバブル経済の頃のような意欲促進型の社会行動を続けていても、人々は刺激の「無間地獄」に陥るだけである。それなら、無駄な活気促進の努力をやめて、生活レベルを下げ、不必要に動き回ることをやめ、低成長型の社会に変えて、それに慣れるようにしたほうがいい。(p216)
このあと冷暖房とかクルマの規制とか携帯電話を高校生に持たせるな、といった具体論が書かれているが、それについてはよくわからない。
だが、考え方としてはとてもよくわかるし、いいな、と思う。
ネットとかテレビとかでこれだけ刺激を受け続けていると、走り続けていないと死んでしまうような変な焦燥感にとらわれてしまう。
だけど中世、とまで行かなくても戦後あたりまでの田舎を想像してみるに、ほんとにやることもなく生きていたんだろうな、という気がする。
やることがなくて気が狂いそうだ、というけど、気が狂った人はいるんだろうか。
まあ、いるかも知れないけど、追いまくられて気が狂うのとだらだらとして気が狂うんだったら、私は後者の方がいいな。
ただ、実際にどうやってそういうペースをつかんで生きていくのか。
それは世界全体がシフトチェンジしないとけっこう難しい。
ただ、著者は現代社会自体が「理性に隅々まで統御された退屈な理想社会」にはなりきっていない以上(そんな社会はあり得ないが)、退屈だから何とかそれに対処しようとする前に、まだまだ個人としてやることがあるんじゃないの?と言う。
そして退屈だから、大きな理念を振り回す人間のいわば「運動」に乗って行ってしまうことを危惧する。
身の回りの小さな不条理をまず何とかしようと考えること、そして理性を働かせること、その上で、対処しようのない事柄、あるいは「退屈」については「あるがまま」に任せるのだ。2002年1月1日の『朝日新聞』は「スローな社会」についての見開き特集を組んだが、日本社会はもっと速度を落とすべきである。退屈のあまり、ラディカリズムの煽動に乗ってはならない。(p221)
ラディカルな意見はとてもわかりやすく、魅力的なので簡単に乗りやすい。
退屈に厭く心はぎゅっとわしづかみされてしまうことが多い。
だけどそういう考えってちょっと怪しんだ方がいい。
こういう意見に賛成してしまう私は意外とずいぶんと保守的だったんだなあ。
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