長谷川四郎
『若い読者のための短編小説案内』の流れで、以前読めなかったこの小説を読みました。
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年を取ったせいでしょうか、意外と読みやすい小説だったと思います。
ただし小説としてはかなり変な気がしますが。
阿久正という、若い(27歳)の会社勤めの男について、ちょっとした知り合いだった「私」が描写する、というのが小説の枠組みです。
阿久正は家の近所では、子供たちにいろんな話を聞かせてやったりして、ちょっと評判がいい。
一方、職場では特に目立つこともせず、ひたすら淡々と仕事をこなす、上司などからはむしろ「気心がどうも分からない」ということで評判が悪いような人間だった。
その阿久正は交通事故で死んでしまう。
それだけの話です。
面白いのはこの阿久正を描写することにどんな意味があるのか、ということを考えることで、うわっつらをなぞれば、特にどんな意味があるのだろう、とむしろ訝しむしかないのです。
近所では面白い人で、職場ではつまらない人で、そんな人が交通事故で死んでしまいました。
しかし、それにもかかわらず何かこの小説は確かに変で、やけに胸を揺さぶるのです。
いろいろ考えてみたのですが、描写する「私」の視線、つまりカメラの位置が定点に置かれているわけではなくて、ひどくぶれているように思うのです。
「私」の視線で突然阿久正が自分の家を建てる描写を行うのですが、一方では決して知るはずもない夫婦間の会話や、会社での仕事ぶりを「私」が描きます。
それは最近の映画やテレビでよくある手持ちカメラのぐらぐらというぶれによる描写を感じさせるような違和感があります。
しかし合理的に考えればおかしなその描写が、むしろリアリティをもって迫ってくるような気がするのです。
いずれにせよ、何らかの意味を付託して小説を書こうとしているわけではない部分に私は共感しました。
大上段にテーマを振りかざして、それに付属するような小説を読むというのはあまりおもしろい経験ではないような気がします。
小説を小説として読む、とことがなされる小説。
村上春樹が好きな小説、というのが分かるような気がしました。
それにしても、この小説の最後は意味が分からなくて、そのくせとても心に残るようなものです。
阿久正は宵の口に病院にかつぎこまれ、その翌朝、息をひきとった。彼は一晩中生きていたわけである。その間に、細君がかけつけて、そばにいただろう。すでに彼は意識不明で、細君に一言も話すことができなかったかもしれない。だが、もし口をきけたとしたら、彼は細君になんと言っただろうか?私は想像してみた。しかし、これは想像できることではなかった。それで、私はせいぜい、今までそういうような状況下で人がいったと伝えられる中から、もっとも彼にふさわしいと思われることばを書くだけで満足した方がいいと思う。
--きみは、もしいい相手がいたら結婚してくれ、そして、もし子供が生れたら、ぼくと同じ名前を付けてくれ。
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