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『ガラスの靴』を読んだ

安岡章太郎

 

村上春樹『若い読者のための短篇案内』で紹介されていた作品。

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あらすじは同書で触れられていたけれども、作品を読んでみると、明晰な文体で書かれた切迫する内容に驚く。

夏休みという限られた時間内での「僕」と「悦子」の恋愛には結びつかない遊戯。

そしてあっけなく終わる二人の関係。

寓話と言っていいのか。

普遍的な物語であるように思われた。

夏休みが終わり、悦子が去り、「僕」は勤め先の猟銃店に戻る。

   N猟銃店の一切は、以前と何の変りもない。ぼくにはそれが不思議だった。今は僕は、ほとんど居眠りばかりしている。もう何もする気もしなくなった。
僕は、うつらうつらしながら眼をあけて、ふと机の上の電話器が気になる。僕はガバと起きなおって、いきなり受話器を耳にあてる。
「・・・・・・・・・・・・」
何もきこえはしない。しかし僕は、それでも受話器をはなさない。耳たぶにこすりつけてジッと待つ。するとやがて、風にゆられて電線のふれあうようなコーンというかん高い物音が、かすかに耳の底をくすぐる。それはむろん、言葉ではない。しかし、だんだんに高まるその音は、声のようではある。いったいそれは、僕に何をささやこうとするのか。
僕はいつまでも受話器をはなさない。ダマされていることの面白さに駆られながら。

エンディングは失われたものへのつながりを求めている象徴に思える。と同時に、村上春樹『スプートニクの恋人』の最後の部分とつながってくるようだ。

   そして唐突に電話が切れた。ぼくは受話器を手にしたまま、長い間眺めている。受話器という物体そのものがひとつの重要なメッセージであるみたいに。その色やかたちに何か特別な意味が込められているみたいに。それから思いなおして、受話器をもとに戻す。ぼくはベッドの上に身を起こし、もう一度電話のベルが鳴るのを待ちつづける。壁にもたれ、目の前の空間の一点に焦点をあわせ、ゆっくりと音のない呼吸をつづける。時間と時間のつなぎ目を確認しつづける。ベルはなかなか鳴りださない。約束のない沈黙がいつまでも空間を満たしている。しかしぼくには準備ができている。ぼくはどこにでも行くことができる。(『スプートニクの恋人』)

失われた者と残された者、お互いがつながりを求めつづけること。つながれない、ということからしかつながることへの道が通じないこと。

オカルトみたいだけれど、小説の探し続ける大きな問題のひとつはたぶんそこにある。

そしてそんなことがいったい可能なのか、知りたくて私は小説を読みつづけている。

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