『頼むから静かにしてくれ Ⅰ』レイモンド・カーヴァー 村上春樹訳
『考える人』という雑誌の2007年春号で、村上春樹がインタビューを受け、カーヴァーから何を学んだのかという問いにこう答えている。
最後にカーヴァーからぼくが学んだのは、「偉そうじゃない」こと。立派なこと、偉そうなことを書かなくても、書くべきことをきちんと描いていれば、それでりっぱな小説にあるんだということ。もちろんそのためにはうまく書かなくてはならないし、普通の人とは違う視線を持たなくてはならない。でも「そんなもの、プロの小説家なら当たり前のことじゃないか」と前提をつけてしまえば、あとは「当たり前のことを、当たり前にちゃんとやってりゃいいんじゃない」ということになります。その辺の捨て去り方が、カーヴァーはとてもうまい。うまいというか、ものすごいです。人は彼のスタイルをミニマリズムというけれど、そんな段階のものじゃないです。人としての生きる節度みたいなものが、彼の場合凛としている。そしてそれはみんな、きっちり身銭を切って獲得されたものです。しかしまったく偉ぶるところはない。彼の短篇小説は全部そっくり訳したけれど、学ぶところは多かったです。
マイ「短篇小説」ブームに乗ってカーヴァーを読むことにした。
村上春樹は好きでも、短篇小説だ、まさしく「ミニマリズム」だ、という理由でずっと読まないままここまで来てしまっていた。
『頼むから静かにしてくれ』は二分冊になっていて、まだ半分を読んだだけだが、やはりもっと早く読むべきだった、と思わざるを得なかった。
確かに村上春樹のいうとおり、「偉そうじゃない」。
小説ではもちろん「偉そう」な小説だって存在していいし、それにひれ伏すことも必要なことなのだが、少なくともカーヴァーはそういう路線を取らなかった。
それは叙述のスタイルに現れていて、これらの小説はほとんど説明がない。
なぜこうなったのか、こうならなくてはいけなかったのか、ということについてわからない。
突然小説は終わるが、なぜここで終わらなくてはいけないのか、ということすらわからない。
余白がありすぎるのだ。
当然その余白を埋めようとする小説も存在するが、カーヴァーは決してそれはしようとしなかった。
そしてそのやり方はたぶん成功している。
読後、私は余白の処理に正直困ってしまうのだが、解消されるべきものではなく、人の心に澱のように残ってよいのだ、とカーヴァーは考えたのだろうか。
短篇小説を多く読むことで、夢をたくさん見る代わりをしている、と思って読んでいるけれど、カーヴァーの小説はカフカや坂口安吾とはまた違う種類の夢だった。
[amazonjs asin=”4124034954″ locale=”JP” title=”頼むから静かにしてくれ〈1〉 (村上春樹翻訳ライブラリー)”]