宮沢賢治
宮沢賢治の本はこどもの頃から読んでは来たけれど、正直言って『銀河鉄道の夜』とか『風の又三郎』がきちんと読めていたか、というと心許ない。
また読み直すことにしたけれど、そのなかで『よだかの星』はこどもの頃から読むのがつらい話だった。
小学生の低学年の頃、転校ばかりしていて学校にうまくなじめずにいじめられていたことを思い出してしまったからだろうか。
(一たい僕は、なぜこうみんなにいやがられるのだろう。僕の顔は、味噌をつけたようで、口は裂けてるからなあ。それだって、僕は今まで、なんにも悪いことをしたことがない。赤ん坊のめじろが巣から落ちていたときは、助けて巣へ連れて行ってやった。そしたらめじろは、赤ん坊をまるで盗びとからでもとりかえすように僕からひきはなしたんだなあ。それからひどく僕を笑ったっけ。それにああ、今度は市蔵だなんて、首へふだをかけるなんて、つらいはなしだなあ。)
いじめられている奴でも死ぬときには一瞬だけ光り輝く、そういう話だとを私は読んだのだと思う。
しかし今回読んでみるとそれだけではない。
また一疋の甲虫が、夜だかののどに、はいりました。そしてまるでよだかの咽喉をひっかいてばたばたしました。よだかはそれを無理にのみこんでしまいましたが、そのとき、急に胸がどきっとして、夜だかは大声を上げて泣き出しました。なきながらぐるぐるぐるぐる空をめぐったのです。
(ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕が今度は鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで飢えて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。)
傷つけられ卑しめられている自分がじっさいには他の誰かを傷つけてしまっている。そんなきつい状況をクリアするためにはどうすればいいか、という難問がここで立てられているのだ。
よだかが星を目指して五度目で「どこまでも、どこまでも、まっすぐに空へのぼって」行って、カシオペア座の脇でよだかの星として燃え続けることを単純に自らで命を絶った、と読むのはやはりちょっと軽いかな、という気はした。
宗教の比喩みたいなものがここにはあるのかもしれない。
だけど、そんな理屈を考えるよりも、やはりこの話は私の胸に届いてしまう。
よだかのようだ、と自分を慰めるけれど、よだかほど自分がりっぱでないことがほんとうはつらいのだ。
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