亀山郁夫
著者は『カラマーゾフの兄弟』の新訳を光文社文庫から出して昨年話題となった人。
しかし改めて書くが、この本でのわたしの試みは、ドストエフスキーを読み慣れた読者たちの感性を、少しでも生まれ変わらせたいという切なる願いに発している。知ってもらいたいこと、知らなくてはならない大切なことがいくつかある。
前半はドストエフスキーについて知っておくべき基本的なことが書かれ、それを踏まえたうえで後半は五大長編小説を新たに読み解いていく、という構成になっている。
後半で、たとえば『カラマーゾフの兄弟』の父殺しは誰か、というような謎とき、仮説はもちろんおもしろいのだが、私は前半の基本的な知識(私自身が何も知らなすぎたのだが)がかなりおもしろかった。
ドストエフスキーは若い頃フーリエ主義に触れていたのだが、このフーリエの思想について私は詳しいことを知らなかった。
しかし、何よりも私たちを驚かせるのが、性愛のあり方に対する関心である。フーリエによれば、社会悪や不協和音をもたらすのは、人間同士の自由な愛を妨げ、情念を抑圧する人間社会の仕組みである。だから彼は、肉体も欲望も喜怒哀楽も一切抑制することはしない。いや、抑制どころか、「合理的計算」によってそれらを統御し、計量化し、調整してゆくことが理想社会の誕生につながる最大の方法と考えた。よってついに、多重婚や近親相姦にいたるありとあらゆる性愛が肯定され、合理化されることになる。
フーリエはドストエフスキーにとって深く解放的な思想だったのである。(p38)
性愛というものがドストエフスキーにとっては重要な問題だった。
また、サディズム、マゾヒズムはその中でも最重要な問題であったらしい、という。
ドストエフスキー文学の「謎」の部分とは、「性」への入口と出口をふさがれた世界であり、その鬱積から、作品の持つ精神的エネルギーが生じているという事実を指摘したかったのである。
ロシアでは1666年前後に「教会分裂」があり、「正当」と「異端」に分裂した。異端派の中に「鞭身派」(儀礼の際に互いの身体を縄などで打ち合うなどしながらエクスタシーを得る)や逆に「去勢派」(原初的なアダムとイブの神話的な楽園への回帰のためにじっさいに去勢を行う)が力を持っていった。
その事実がドストエフスキーの性への関心と絡み合って、小説の世界に導かれたのだ、というのだ。
どの話もほとんど知らない話であって、それを踏まえてもう一度ドストエフスキーの小説を読み直すと、まったく違う読み方ができるのに違いない、と納得されるものだった。
なお、五大小説と言われる『罪と罰』『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』のうち、『未成年』はまだ読んだことがない。
この本の中で『未成年』はとても魅力的に紹介されているので、ぜひ読みたくなりました。
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