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『言語表現法講義』を読み返してみた

加藤典洋

昔読んだものの再読。

「文間」の問題などについて読み返してみたかったのでぱらぱらめくっていたら全部読んでしまった。
大学生を相手にした講義をもとにした本。
文間については、このようなこと。

 一つの文と次の文の間、それは怖い。一回、そこに入り込んだらもう出られない。なぜなら、そこから出る理由はないから。いいですか。書いても無駄だ、ということはないでしょ。書こうと思ったら、書けちゃう。だから、飛ばなくてはいけない。そこが悪いところだからそこから一刻も早く外に出なくちゃいけない、というんじゃないんです。そこから外に出る理由なんて何もないから、だから、飛ばなくちゃいけない。出る理由なんて、いつまでたっても出てこない。理由を待っていたら、いつまでも飛べない。だから、飛ぶんです。理由なしに。

自分の文章がひじょうにうっとおしい。

その原因のひとつはたぶん文間からなかなか抜け出せない勇気のなさにある。

ふだんから「飛べない」やつは、文章でも飛べないのかなあ。
風通しを良くしたいものだ。
ほかにも、いろいろいい文章が出てくるので、抜き書き。

 文は書かれるだけではいけない。読まれなければならない。書かれるまでが往きの切符。読まれてからが帰りの切符。その往復で、言葉の旅は終わります。

 

 いいですか、知っていることを書く、んじゃないんですよ。書くことを通じて何事かを知る、んです。

 

美、とはそういう力です。客観的に存在するんじゃない。でも誰もがそう感じるはずだ、という。客観的な裏付けがないにもかかわらず一人一人に確信させる、そういう力。

 

 文章を書く心得の第一は、自分が書きたいと思ったら、それを書く、ということなんです。
自分との関係が第一。それから、それがひとにどう見えるか、という順序。

 

 

「書き出しは書き手にとって「他者」になれ、ということと、書き終わりは決してそれまで書いたことへの「大河」になるな」

 

 言葉は、文のところと、文じゃないところ──文間──で、僕たちに何かを伝える、ということになる。二つの力の源泉を持っていることになる。

 

絵じゃないものがないと、絵は健全にならない。モチーフは、ヨソから来るもので、いわばそれが絵を殺菌するんです。

 

書こうとするときに、その邪魔、障害として現れてくるものを回避したら、絶対にいいものは書けません。書かれる文章に力を与えるのは、その障害、抵抗なんです。

 ぼくは、実感は間違うことがしばしばあるということは認める。でもいい。でも、その実感から始めるのがいいんだ、という考えなのです。

 準備は是非必要ですが、実際に書いてみると、妨害者が現れ、予定通りにいかない、その準備が壊れる、歪むようであってほしいのです。

 

「それはそうだが、にもかかわらず、文章を書くことは、そういうすべてを全部忘れて、やりたいようにやっていいのだ」

 

加藤典洋の文章は、頭の中のものを文章に変換して差し出すのではなくて、文章にしながら考えているから、文章自体は分かりづらいときが多い。

だけど、そういうやり方ってとても信用できるような気がするんだなあ。

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