荒川洋治
高橋源一郎が『ニッポンの小説』でこの本から長々と引用しており、いつか読みたいと思っていた。
このあいだ読んだ加藤典洋の『言語表現法講義』でも荒川洋治に言及されていたので、ようやく手に取った。
よかった。
文芸時評というと、やはり高橋源一郎の『文学がこんなに分かっていいかしら』がとても良かったのだが、それと同じくらいにすばらしい。
荒川洋治の文章を初めて読んだのだが、その文章がよい。
そして、それは高橋源一郎に近いものを感じた。
うっとうしくないけれど、愛がある。
そんな感じ。
詩人(高橋源一郎は詩人ではないけれど、現代詩のことはたぶん現代詩人よりも知っているのにちがいない)たちの文章は、散文の文章とはどこか根本的に違っているのだ。
こんな文章が12年も新聞に載っていたのだが、おそらく周りの文章とはまったく違って見えただろう。
知っている小説も出てくるが、基本的には文芸誌に発表された小説を毎月取り上げるので、知らないものの方がはるかに多い。それなのにおもしろい。
荒川洋治がきちんと愛をもって読んでいるからなのだろう。
そして、きついことも言っている。
私は保坂和志が好きだが、保坂和志についてもこのように。
「季節の記憶」は好評で、文壇の二つの賞に輝いたが、ぼくはこの作品は「あやしい」と感じていた。彼の最近の小説の特徴は、哲学の知識や思考をそのまま文章の中に出して理屈をこねること。また、なにもわからない子供を登場させ、これはね、こういうことなのだよ、というように一件民主的な親密さを漂わせはするものの、人の「上位」に立とうとする態度が匂う。
きびしい。
だけれど、『プレーンソング』のすばらしさ=なにもなさに比べると、『季節の記憶』などは確かにむずかしいなあ、という気はする。
大江健三郎もばさばさ切っているし、村上春樹もだめなものはだめだが『神のこどもたちはみな踊る』では「日本では村上春樹だけが小説を書いているのだといえるかもしれない」とまで絶賛している。
ほめ方も批判の仕方もその文章のせいで私にはすがすがしかった。
いつか、『ニッポンの小説』と平行して再読をすることにします。
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