レイモンド・チャンドラー 村上春樹訳
『長いお別れ』は清水俊二訳のハヤカワ文庫で大昔に読んだ。
フィリップ・マーロウかっこいい、という記憶しかなくて、どういう筋だったかほとんどおぼえていなかった。
ギムレットは確か出てくるよな、と思いながら。
フィリップ・マーロウはもっとクールな探偵だと思っていた。
しかし、関係のないことに首を突っ込み、何の得にもならないこと(むしろ損になること)ばかりを進んで行う。
それがかっこいい。
単に巻き込まれて、それをクールに処理するのであっても、かっこいい。
だが、マーロウは自分の宿命みたいにどうしようもない状況に向かっていき、なんとか打開していこうとする。
村上春樹はあとがきでこう言っている。
チャンドラーは自我なるものを、一種のブラックボックスとして設定したのだ。蓋を開けることができない堅固な、そしてあくまで記号的な箱として。自我はたしかにそこにある。そこにあり十全に機能している。しかしあるにはあるけれど、中身は「よく分からないもの」なのだ。そしてその箱は、蓋を開けられることをとくに求めてはいない。中身を確かめられることを求めているわけでもない。そこにそれがある、ということだけが一つの共通認識としてあれば、それでいいのだ。であるから、行為が自我の性質や用法に縛られる必要はない。あるいはこうも言い換えられる。行為が自我の性質や用法に縛られていることをいちいち証明する必要はないのだ、と。それがチャンドラーの打ち立てた、物語文体におけるひとつのテーゼだった。
小説では、自分がどうしたこうしたとひたすらぐるぐる悩み続けるものは多数ある。
フィリップ・マーロウだってああでもない、こうでもない、と悩んでいるのにちがいない。
しかしチャンドラーは自我は自我として存在するけれど、とりあえず括弧に入れてしまって、物語を進行させていく。その中ではっきりとは言及しないのにもかかわらず、自我がリアリティを得ていく。
というように村上春樹のあとがきを読んだのだが、正直言ってむずかしい。
だが、この小説にはたしかにじぶんのことをぐだぐだいううっとうしさは無縁である。
単純にハードボイルド、というにはあまりにも血が通いすぎているともいえる。
それにしても、フィリップ・マーロウはかっこいい。
そして最後にマーロウの年齢とわたしの年齢が同じだ、ということが分かり、まったくもってがっかりしたのである。
もちろんこんな自分に。
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