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『吉本隆明1968』

鹿島茂

吉本隆明というと、私にとっては『共同幻想論』や『言語にとって美とは何か』を読もうとして歯が立たなかった相手であり、吉本ばななの父であり、反核運動に非を唱えた若干変わった人であり、糸井重里が今一番押している人物の一人であるという、漠然とした感想を持つ。
だが、たぶん私より上の世代では吉本隆明はとってもすごい人として受け止められていることも知っていた。
たとえば高橋源一郎などは吉本隆明に読んでほしくて小説を書いた、とどこかで言っていた(実際に吉本に『さようなら、ギャングたち』は絶賛されたのだった)。
私は高橋源一郎は好きだけど、吉本隆明についてはどう読めばいいのか、よくわかっていない。
この本の「はじめに」で担当編集者が著者へ「吉本隆明って、そんなに偉いんですか?」と問いかける。
その問いに対して1968年頃に団塊の世代が受け取った「吉本隆明」を再構成したのがこの本である。
吉本の著作をほとんど読んでおらず、ましてや初期のものは初めて知ったという初心者なのでおぼつかないが、この本で言っていることのひとつは、たぶんこういうことだと思う。
吉本の初期の著作は芥川龍之介や高村光太郎についての批判的な評論だが、吉本は芥川や高村とある意味似ていたから、それを批判することにより自分が同じ轍を踏まないようにしたのだ。
そして、鹿島茂自身が吉本と似た資質があるために、吉本を客体化するためにこのような評論を書いた、というオチになっているようでもある。
この本を読んで今さらながらわかった重要なことは、評論とは対象を手がかりにして自分について語るものだ、ということだ。
どうしていろいろな評論が世の中にあるのか、実はよくわからなかった。
自分を語るために評論している、ということであればよく意味がわかる。
単なる学究心や探求心、対象の宣伝や憎悪からということだけではなかったのである。
まるで勘違いしていた。
そう考えると、もっと評論も読みやすくなる。
さて、この本を読んだあと、うちに以前100円で買った講談社『現代の文学25 吉本隆明』があり、その中に高村光太郎の評論などが所収されているので読んでみようとしたが、ちょっとむり。
ましてや『マチウ書試論』なんてもっとむり。
吉本隆明の真のすごさはやっぱり私にはきっとわからないままなのだろう。

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