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『物語論で読む村上春樹と宮崎駿』

大塚英志

最近書店に行かずAmazonでばかり本を買っていたが、新しい本についてチェックしきれないので久しぶりに書店に出向いたら大塚英志のこの本が出ていたので買った。

 ジャパニメーションも村上春樹もよしもとばななも、それらが容易に世界化するのは、そこに構造しかないからだ、という柄谷の指摘は、労せずして海外に伝わりうるのは「構造」の部分でしかない、ということにもなる。「構造」以外のものが伝わらないわけではないが、それはとてつもなくやっかいなディスコミュニケーションを乗りこえていく必要がある。簡単に届いてしまうのは「構造」だけだ。だから世界に届く表現など、たいてい構造に特化した表現だ。実を言えば本書でのぼくの試みはこの柄谷の主張を村上春樹と宮崎駿に当てはめて少しだけ噛み砕いてみせるだけの話でしかない。

大塚英志は村上春樹の小説がジョゼフ・キャンベルの『千の顔をもつ英雄』がネタ本である、という前提で論を進める。
『千の顔をもつ英雄』は『スター・ウオーズ』を作るに当たってジョージ・ルーカスがネタ本としているのだが、大塚は村上春樹もその影響にあったと考える。
その『千の顔をもつ英雄』は神話の構造について書かれたものであり、英雄神話は古今東西において出立→イニシエーション→帰還といった構造を持っている。
『羊をめぐる冒険』を引き合いに出し、いかに『千の顔をもつ英雄』と一致しているかを大塚は鮮やかに説明していく。
そのあと宮崎駿についてもその映画が同じような構造を持っていることを説明する(私は宮崎アニメをきちんと見ていないので正直よく分からないところがあってすっ飛ばして読んだが)。
大塚は決して村上春樹や宮崎駿がキャンベル的な神話・物語構造を用いて小説や映画を作ったことを批判しているわけではない。
物語、構造の強力な力が世界を覆うことに危惧を表明している。

 物語で現実は解決しないのに、物語のように現実を再構成して、そして理解し解決しようとしているのが9・11後のぼくが「再物語した」と呼ぶところの世界である。
物語批判は物語の外にこそ向けられるべきであり、しかも物語ではない因果律によって世界を理解し、記述していくかについては本当はたくさんの思想や試みが書物として世界中に今もある。
物語など所詮はただの消費財であるべきだ、とぼくがいいつづけるのはそれ故である。
少なくとも「構造しかない」物語にこの国全体が「とてつもない日本」という空虚な意味を補填し、日本が世界に届いたと思い込むことだけはやめた方がいい。
何も届いていないし、届けてしまってはいけないのである。
9・11はアメリカ、ないしはブッシュという「物語メーカー」の暴走としてあり、そこに日本人は「欠損した私」を委ねてしまったことは忘れてはならない。

ただ、正直言って私には物語ではない因果律によって世界を理解し記述する仕組みがよく分からないのである。

世界を理解し記述するときには必ず物語は発動してしまうのではないか。

こんなブログで何かを書こうとしてもどこかでオチをつけたくなる。

これも卑小な物語の一つではないのだろうか。
文学において物語を発動させない試みを思いつくことはできるけれど、それは私のようなレベルの読み手には決して楽しいものではなかった気がするのだ。
それでもとりあえず物語について自覚的であり続け、物語ではない方法で記述する方法があるのか、考えてゆきたい。

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