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『うわさのベーコン』

猫田道子

 

高橋源一郎が『ニッポンの小説』などですごいすごいと言っている『うわさのベーコン』を古書店でようやく手に入れて読むことができました。
『うわさのベーコン』は短編小説集で、表題作のほか全4篇が収められています。
読み終わったら少々具合が悪くなりました。
「各収録作品の文中には明らかな誤字脱字が含まれていますが、本書編集にあたっては、それも含めて”著者の文体の魅力”と判断いたしましたので、あえて訂正は加えておりません。ご了承ください。」と編集部からの注意書きがあります。

 その帰り、私は来た道を通って帰りました。いつも自動車だったのですが、今日だけ車で来なかったので感覚が違います。
とにかく、事故のないように気をつけて帰りましたが、事故にあってしまいました。
父親と母親は、それを知って来て下さいました。むさぶるいがなさったそうです。悪い予かんがしたので開場に行ってみようと思ってやって来て下さらなかったら、私が自己にあった事が分からなかったでしょう。
私は病院に行って、命はとりとめました。
「運が良かったのよ。」「簡たんに行って欲しくありません。」
看護婦さんが希気を持たせようとなされて言って下さったお言葉につづいて、母がおこって言いました。
「この娘には兄がいました。その兄が、まだこの娘がちいさかった時に交通事故で亡なっています。この娘も、もしかしたら死んでいたのかもしれなかったのに、そんなに簡たんに運が良かったなんて言って欲しくありません」
母親のあんなおこった所を見るのは、めづらしく思いました。
私は、思わず泣いてしまいました。
「看護婦さん、気をたしかに持っていて下さいね。」と私は言って差し上げました。

ストーリーはたしかに存在し、それは理解できるので小説としての体裁は保っているのですが、なんと言っても言葉の選択やらがおかしいのです。
文章が内面を写し取ろうとするものだ、という素朴な考え方に照らせば、作者は内面が壊れているということで片付けられるのかもしれません。
しかし高橋源一郎が激賞するせいでしょうか、私には単に作者が壊れているとは思えないのです。
私は詩のことがよく分かりませんが、この文章は詩に近いのかもしれません。
人はものを考える最初の段階で、いわゆるきちんとした散文のように、論理的に文章を組み立てることはしないでしょう。

たしか荒川洋治がそのようなことを言っていて、その現場を詩人が技巧的に再現するのが詩なのでしょうか。

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この作者は技巧ではなく、自然に、もしくは特殊な能力により、思考の発生の現場を散文に近い文体ですくい取っているのかもしれません。
だから、読む方はなんだか変な揺さぶられ方をして気分が悪くなるのです。

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