橋本治さんの『古典を読んでみましょう』(ちくまプリマー新書)を読みました。
古文の授業が苦痛でした。
そのまま今に至って、読みたいと思いながらほとんど古典は読んでいません。
大きく二つのことが書いてあると思いました。
一つはなぜ古典を読んだ方がいいのか。
古典は今の私たちには分からないことが書いてある。だから読んだ方がいい。
むずかしい顔をしていても、古典というものは「そんな考え方があるの?」と教えてくれるようなものなのです。だから「読んでみましょう」と私は言うのです。(p132)
そして、一番めんどくさくて分かりにくいことは、「自分がしないような考え方」で書かれているものを読むことです。 でも、「本を読む」ということは、なにが書いてあるのかよく分からないことを、探り探り読んでいくことでもあるのです。探り探り読んで行って、探り探り読んで行くことに慣れる──そうやって身につけるのが、『愚管抄』で慈円の言った「分かっていく能力」、つまり《智解》です。 どんな本でも、初対面の時には「なにが書いてあるのかよく分からない本」です。それに対して、「読者である私に分かるように書いてないからダメな本だ」と言うのは、ただのわがままです。(p217)
ただ「分かりやすい文章を書く」ということだけを考えて、すでにある日本語の多様な表現を忘れてしまうのは、損です。そういうことも考えて、私は「古典を読んでみましょう」と言うのです。(p237)
もうひとつは和文のわかりにくさの理由。
論理は漢文に任せているから、和文はもともとあいまいなものなのだ、ということ。
「分からなかったら辞書を引け」という言い方がありますが、古典の場合はこれがまず第一の難関です。どうしてかと言うと、かなや漢字が入り混って続いている古典の文章は、まずどこが分からないのか分からないので、辞書の引きようがないのです。(p96)
漢字だけの漢文と、かなだけの和文の二本立てでやって来た日本語は、論理の方を漢文に任せています。つまり、かなの文章で理屈を追うのはむずかしいのです。『源氏物語』のわかりにくさは、漢字や熟語を使って意味をストレートに分からせるということをせずに、ひらがなで悠々かつぼんやりと説明して行くからです。響きは美しいけれど意味が曖昧で取りにくい──これが純日本語の和文です。枕詞や掛け詞を使って、「なにかは表現されているのだが、なにが表現されているのかよく分からない」になってしまいがちな和歌が、この和歌による和文の典型です。「和歌こそが日本語の本流で、和歌と言うものは理屈ではなくて歌うものだから、日本語が論理的にあやふやになってしまうのも仕方がない」という考え方も出来ます。(p178)
和漢混淆文以前に、日本語は漢字による「漢文」と、かなの文字による「和文」の二つに分かれて発達して来ました。漢文は公式文書を書くのに使い,和文は「公式」と関係ない和歌や物語を書くために使われました。だから、「漢文はちゃんとしていなければいけないが、意味をはっきりさせる漢字がほとんどない和文は曖昧でもいい」というようなことになってしまったのです。(p202)
分かりやすい日本語を書かなくてはいけない、という常識自体がそもそも誤っているのかも知れない、と思いました。
最後に紹介された『伊勢物語』はぜひ読みたい。
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