『可能なる革命』
大澤真幸
今さら革命なんて、と思う。
しかし、資本に身体もお金もデータも明け渡してしまっている現状でどこかで革命を夢見る気にもなる。
資本主義を乗り越える「革命」は可能か?というのが本書のテーマなのだが、実を言えば可能なのかどうなのか、よくわからなかった。
むしろ「〈革命〉の可能性ということについて」「現状分析」している本である。
それぞれの章が社会学的な(でいいのかな)分析が冴えていて面白い。
若者の多くは、調査では「今の生活が幸せだ」と答える。
しかし、大澤さんはそれを額面どおりに受け取るべきではない、という。
彼らの多くが「今の生活が幸せだ」と回答するのは、彼らにはいまだ多くの人生の時間が残されているのにも拘わらず、その残された将来の中で、今よりも幸せになるとは想定できないからである。(p55)
また、若者の選挙の投票率が落ち込んでいるのだが、調査では若者の社会志向は高い。
ところで、このねじれは、つまり「社会や政治への志向を持っているのに選挙へは参加しない」というねじれは、若者たちのもう一つのねじれ、不幸や不満を覚えてもよいような社会的困難を自覚しているのに、幸福であると答えてしまうというねじれと似た形式を持っていないだろうか。(p90)
一方に、私的と呼ばれている心情や信念や趣味の領域と、それらに結びついた親密圏の社会関係がある。他方には、公的な政治や全体社会に関連する主題の領域がある。これらふたつの領域を順接的につなぐ回路がどこかにあるのだ。その回路が見出され、開通しているとき、若者たちは政治的な行動を起こす。しかし、こうした回路が見つからないとき、彼らは、政治からは撤退している。(中略)この順接の回路とは何か?それはどのようなときに、どのような条件で、あるいはいかなる意味で現れ、開通するのか。(p105)
この回路を探すためにさまざまな分析を行う。
例えば「オタク」。
しばしばオタクは、狭く、特殊なことがらにしか関心を向けていない、と批判される。オタクはその特殊な領域を通じて包括的な普遍性が分節されているのである。(p120)
例えば『桐島、部活やめるってよ』、『あまちゃん』。
そしてメルヴィルの『バートルビー』。
どれも面白い。
しかし、なかなかうまくは行かない。
特殊なものが普遍的なものにつながる可能性がある、ということはなんとなくわかるのだが、具体的にどうすれば資本主義を乗り越えられるのか。
ぼんやりと見えるような気もするが具体的にはなにもない。
資本主義というシステムはそんな簡単には乗り越えられないのだ。
ところで、大澤さんは〈動物と人間〉をめぐる研究に取りかかっている。
今のところ、われわれの想像力は、資本の想像力よりも貧困だ。この貧困を克服しなければならない。動物までも視野に入れる社会学的考察は、そのための道である。(p410)
この「フック」に満ちた本をきっかけに私も「革命」について夢見てみたい。