『読んでいない本について堂々と語る方法』
ピエール・バイヤール 筑摩書房
本を読むということはどういうことなのか
本を読んだ、というのはどういう状態なのか。
本を読みながらそんなことばかり考えている。
本がソフトウェアだとして、読書とはそれをインストールする行為だと思っていた時期もあった。
最近はもうちょっと緩い感じで読書を捉えているけれど。
そんな今日この頃、この本を読んだらほんとうに楽になった。
この本のタイトルは前から気になっていたのだが、バイヤールさんの名前が大澤真幸さんの『可能なる革命』に出てきたので読んでみることとした。
読んでいない本について堂々と語るノウハウがもちろん書かれているのだが、「本を読むこと」とはいったいどういうことなのかの考察がされていて面白い。
ポール・ヴァレリーはプルーストやアナトール・フランス、ベルクソンについての文章を書いたり、講演をしたが、その作品をほとんど読んでいなかった。もしくは流し読み程度だった(ちなみに私はヴァレリーも含めて四人とも読んだことがない)。
ヴァレリーにとって、本をあまり読まないこと──というより、彼の場合、ぜんぜん読まないことの方が多かったようであるが──は、他の作家を正確に評価したり、彼らについて長々と意見を述べたりする妨げにはまったくならない。(p30)
ヴァレリーは個々の作品と距離をとって、作品の「観念」に接近しようとする。「作品に近づきすぎると、その個別性の中に迷い込んでしまうからである」。
しかし、この流し読みという読書法が幅広く実践されているという事実は、読むことと読まないことの違い、ひいては読書そのものの概念を大きく揺さぶらずにはおかない。一冊の本を全部は読まないにしても、ある程度は読んだ人間を、どのカテゴリーに入れるべきだろうか。何時間も読んだ人間はどうか。もし彼らがその本について語ることになったら、彼らは本を読まずにコメントしているといえるだろうか。(p46)
本を読んでいないということがどういうことかを明確に知ることは難しい。(中略)ということは本を読んでいるということがどういうことかを知ることも同様に難しいということである。われわれはたいていの場合「読んでいる」と「読んでいない」の中間領域にいる。少なきとも、ひとつの文化の内部でわれわれが手にする書物についてはそう言える。そしてその大部分について、それらを読んだことがあるかどうかをいうのはむずかしいのである。(p47)
読んだと読んでいないの区別はむずかしい。ならば流し読みでもつまみ食い読みでも、場合によってはタイトルだけ読んでも読んだことにしてしまったほうが得ではないか。
ということはベルクソンの『物質と記憶』を買って、解説だけ流し読みした私はすでにベルクソンを読んでいるのだ。
さて、こういうブログで本の感想を書くときにいろいろ悩んでしまいます。
どうすればいいでしょうか。
バイヤールさんはオスカー・ワイルドの批評についての文章を引きながらこう言う。
批評というものは、フロベールにとっての小説が現実についての小説ではないのと同様、作品についてなされるものでないといえる。私が本書で問題にしたいと考えたのはまさにこの「ついて」である。それはこれを忘れることに伴う罪悪感を少しでも軽くするためである。(p207)
極端に言えば、批評は、作品ともはや何の関係も持たないとき、理想的な形式にたどり着く。(p208)
自分自身について語ること──これがワイルドが見るところの批評活動の究極のねらいである。批評を作品の影響力から守り、このねらいから遠ざからないようにするため、すべてはこの見地からなされねばならない。(p210)
読書のパラドックスは、自分自身に至るためには書物を経由しなければならないが、書物はあくまで通過点でなければならないという点にある。よい読者が実践するのは、さまざまな書物を横断することなのである。良い読者は、書物の各々が自分自身の一部をかかえ持っており、もし書物そのものに足を止めてしまわない懸命さを持ち合わせていれば、その自分自身に道を開いてくれるということを知っているのだ。(p211)
柄谷行人さんの批評は、まさにマルクスやカントや漱石を「口実」にした自分自身のことを書いた批評である。
私のブログなんて、批評とはまるで違うけど、何かしらの作品を口実にして好きなこと書けばいいんだ、ということにします。
あと、モンテーニュが読んだそばから読んだことを忘れてしまう、という話がとっても親近感が持てたなあ。