若松英輔 中央公論新社
以前、「ヒストリーチャンネル」でイエスの生涯をドラマ仕立てにしたものを見ました。
かなりわかりやすくて、むかし読んだ聖書の復習になりました。
若松さんの「イエス伝」は、そういったストーリー重視のものではありません。
だから最初は面食らいました。
イエスの生涯を誕生や山上の説教、最後の晩餐といった場面ごとにひとつひとつ考えながら歩きます。
聖書をじっくり読みながら、遠藤周作やカール・バルト、内村鑑三、マイスター・エックハルトらを召還し、ときには『コーラン』や曼荼羅図を参照しながら、イエス像をじっくり浮き上がらせていきます。
手がかりとするのは「コトバ」です。
初めにみ言葉があった。
み言葉は神とともにあった。
み言葉は神であった。
み言葉は初めに神とともにあった。(『ヨハネ伝』から。引用者注)
ここでの「み言葉」とは、言語としての言葉ではない。言語は、言葉の一形態に過ぎない。画家は色という「言葉」で絵を描く。音楽家は音という「言葉」を用いて、彫刻家はかたちという「言葉」で、それぞれの作品を作り、そこに意味を顕現させている。『コーラン』あるいは新約聖書でいう「言葉」とは意味の始原、意味の根源的な姿を指している。本書では、そうした「言葉」を、ときにコトバと記すことで、言語的な言葉と区別して用いることにする。 若松さんは聖書を通して、聖書が成り立つ前の「コトバ」に遡ろうと努力します。
例えば、ユダについて。
もちろん裏切り者で悪者とされている彼について、カール・バルトを引用します。
祭司たちにイエスを引き渡すことによって、ユダが「使徒としてのつとめを、完全に正反対に逆転させたように思える」(『イスカリオテのユダ』)とカール・バルトは言う。バルトはイエスの働きが十全に行われるためには、ユダの「引き渡し」はどうしても実行されなければならなかったことに注目する。むしろ、それがイエスの生涯を完成させる重要な営みだと考えている。そればかりか、バルトはユダの行いに「教会」の重要な礎すら見ている。
そして、遠藤周作『沈黙』で司祭が棄教を迫られ踏み絵を踏む場面を引いたうえで若松さんはこう言います。
ここに描かれているのは、自ら落ちてゆくさまを凝視しなくてはならなかった者の悲しみである。
弟子たちの中で自ら意図して裏切りを行ったのはユダだけだった。他の弟子たちは捕らえられるのが恐ろしかったのかもしれない。命の危険を感じたのかもしれない。理由はどうあれ、彼らも師を見捨てたが、ユダのような苦しみを背負うことはなかっただろう。最も美しく、また聖らかで、完全を体現している、愛する師を裏切ったユダは、イエスの実相にもっとも近づいた弟子だったのかもしれない。その分、ユダの痛みは深く、重い。 ユダについてどうしても割り切れないものがありましたが、その割り切れなさが言葉にされています。
このように、時を経て明確に区分されてしまったものを、若松さんは原初の混沌にまで遡ろうと努めます。
福音書には、現代人が考える文章を最初から拒むような記述がある。この書物は読む者に、文字を追う目とは別な、もう一つの目を見開くことを強く促している。言語としての言葉の奥に、裸形の意味そのものとなった、隠された文字があることを暗示している。それは読むものの魂の中にだけ顕れる不可視なコトバである。
一冊を通じて、過去のイエス像、聖書観をやわらかく解きほぐしながら、原初に近づこうとする姿勢に引き込まれました。
読んで何かが分かった、とはいえる本ではありませんが、聖書や信仰との向き合い方を考えさせてくれます。