橋本陽介 講談社選書メチエ
「王が死んだ。」は物語ですが「原子は電子から構成されている。」は物語ではありません。
橋本さんは、物語とは「時間的な展開がある出来事を言葉で語ったもの」と定義します。
物語論(ナラトロジー)とは「物語は何なのか」「物語とはどのように出来上がっているのか」ということを論じてきた理論です。
本書の前半「基礎編」では構造主義、特にジェラール・ジュネット『物語のディスクール』を中心に、理論の基礎を学びます。
後半「分析編」では「基礎編」で学んだ理論を実際の作品に適用して具体的に分析していきます。
なぜ物語論の本を読むのでしょうか。
物語の秘密を知りたいということがあります。
例えば、村上春樹さんの小説はどうしておもしろいのだろう?と思っても、村上さんは簡単には教えてくれません。
そんなとき、たとえば村上さんの小説についての加藤典洋さんの評論を読むと、村上さんの小説を読んだのとは違う感銘を受けます。
単純に「おもしろかった」ではなく、どうしておもしろかったのか?ということがわかるようなツールを持ちたいということです。
さらにいえば、物語の持つ力に対する畏怖があります。
『人はなぜ物語を求めるのか』(注)で著者の千野帽子さんはこう言います。
僕たち人間は日常、世界をストーリー形式で認知しています。そのとき、僕たちはストーリーの語り手であると同時に読者であり、登場人物でもあるのです。物語る動物としては、自分や他人のストーリーに押しつぶされたり、自分のストーリーで人を押しつぶしたりせずに、生きていたいものです。
生きていくことは物語を語り、物語を聴くことです。
つまり、自分が意識していないときであっても、物語のなかに浸かっています。
山本七平さんは「人は、何かを把握したとき、今まで自己を拘束していたものを逆に自分で拘束し得て、すでに別の位置へと一歩進んでいるのである」と言いましたが、同じように物語を把握することで少しでも別の位置に進めることができたら。
この本でも橋本さんはこう言っています。
物語には明らかに読み手の考えに作用する力がある。意図的に作られたものであるが、それを真実であると信じて疑わなくなる人も少なくない。中国共産党などが物語を政治に従属させ、宣伝の道具と位置づけたのも、物語のこの力のためである。物語論で物語がどのように作られているかを知るならば、短絡的にメッセージを受け取ることも少なくできるだろう。
思うに物語と言うのは、人間の観念による構築物である。現実は物語的に把握され、物語は把握された現実のように表象される。換言すれば、それは現実認識を抽象化し、普遍化したものである。現実は私たちの感情に作用するが、物語も読み手の感情に作用する。それも、抽象化され、普遍化されている分、時には現実以上の作用を及ぼすのである。
物語論を学ぶことで、感情に流されつつも「なぜこんな感情を抱いているのか?」と一歩引いた位置から見ることができるといいのですが。
さて、「基礎編」では物語に流れる時間や視点、語り手についての分類を学びます。
例えば「語り手」の問題です。
物語の語り手はおおよそ「一人称」と「三人称」に分けられます。
しかしよくよく考えてみると、「一人称物語」「三人称物語」という分類には不自然な点がある。「一人称物語」とは「語り手」が一人称であるのに対して、「三人称物語」の「三人称」で指示される人物は、物語の登場人物であり、語り手ではない。(略)
潜在的にはすべてが「一人称物語」だと考えたのである。ではいわゆる「一人称物語」と「三人称物語」の違いはというと、物語内部に一人称で語る語り手が登場人物として存在しているかどうかになる。
「彼は自転車に乗っていたが、転倒して骨折した。」という物語では、「彼」と三人称で指示はしていますが、それはこの物語に登場してこない誰かが一人称で語っているというわけです。
なるほど。
前からこの問題には疑問を持っていたので少しすっきりしました。
「分析篇」では『シン・ゴジラ』『エヴァンゲリオン』『この世界の片隅に』やガルシア=マルケスの小説など、さまざまな作品を分析します。
数多くの知らない作品が出てくるので、ブックガイド、シネマガイドとしてもおもしろいですね。
余華などの中国の作家たちがとても気になりました。
とにかく文章が読みやすくて、楽しく学べます。
物語論の概要を知るにはおすすめです。
(注)同書については牧愼司さんの紹介コラムがとても参考になります。
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