佐々木敦 慶應義塾大学出版会
もう何十年も昔、仲のよかったカマタくんが中学校の卒業文集にこんなことを書いていました。
うっすらとした記憶から再現すると
私は卒業文集のために原稿用紙に向かっていた。しかし書くことがない。文集委員から原稿用紙2枚を書けと言われたが、書くことがないのだ。それでも書かなくてはいけないのだろう。今日も文集委員から催促をされている。しかたないので中学三年間を振り返ってみる。(中略)とかなんとかしていると、原稿用紙が字で埋まっていた。私は偉い。これで文集委員から文句を言われないですむ。
当時、これを読んだとき、まいったな、と思いました。
今になって思えば、カマタくんは「書く」という行為、そして「書いたものを作者が読む」という行為を意識させるという点ではメタフィクションの手法を使っていたわけです。
もちろん、読書経験を積んでくればこのような書きっぷりは比較的ありがちなものとわかりますが、当時の私には斬新でした。
早熟だったカマタくんは『虚人たち』をすでに読んでいたのかもしれません。
さて、本書は、そのメタフィクションの歴史をたどり、「パラフィクション」という新しい概念を提示します。
『ドン・キホーテ』、『トリストラム・シャンディ』の昔からメタフィクション的な物語は存在したのですが、具体的に「メタフィクション」という言葉が使われ出したのは1970年代だそうです。
メタフィクションとは何か。
パトリシア・ウォーの『メタフィクション──自意識のフィクションの理論と実際』を孫引きします。
メタフィクションという言葉は、フィクションと現実の関係について様々な問題を提起するために、人工作品としての自らの地位に自意識的に、そして組織的に注意を向けている、フィクションの手法につけられた名称なのだ。自らの構築を批評しながら、そうした手法は、物語フィクションの基本構造を検討するだけでなく、文学フィクションのテクスト外の世界のフィクション性についても、併せて考察しているのである。
メタフィクションの代表的な作品として本書で検討されている、筒井康隆さんの『虚人たち』の書き出しを孫引きします。
今のところまだ何でもない彼は何もしていない。何もしていないことを知っていると言う言い回しを除いて何もしていない。
窓の外は晴れている。いや。曇っているかもしれないがその保証はない。なにしろ雨が降っているかもしれないくらいだから。それでもやっぱり晴れているのかもしれない。窓ガラスが時おり光るのは太陽の光なのかもしれないが横なぐりに吹き付けてくる雨滴が何かの灯火に照らされているのかもしれず雪明かりなのかもしれない。それどころか晴天と曇天と雨天がそんなことはあり得ないとする日常的思考を否定したり嘲笑したりするために数秒置きの繰り返しを演じているのかもしれないではないか。そう考えてこそもしそれが雪明かりだとすれば雪明かりがちらつくなどという非日常性も納得できようというものだが彼はあいにくそんなことを納得する気すらない。確かなことは屋外の天気が不明であると彼が判断するための窓ガラスがそこにあるということだけだ。
メタフィクションは1970年初頭と80年代に隆盛の時代を迎えますが、80年から90年にかけては「メタフィクションのためのメタフィクション」が無数に登場し、また「メタ的感覚」が社会や日常に染み渡ってしまったことから、一線から消えていった、と佐々木さんは言います。
その後いわゆる「ゼロ年代」にインターネットの普及とともにメタフィクション自体が当たり前のこととなり、メタフィクションが再浮上してきました。
最初のムーブメントの代表的な作品として筒井さんの『虚人たち』、ゼロ年代の作品として舞城王太郎さんの作品のメタフィクションぶりを検討します。
メタフィクションの手法についてはジョン・バースさんたちが『キマイラ』などでメタの上にメタを重ねる手法などを実践して深化していきますが、そうした手法はいまや行き詰まっている、と佐々木さんはいいます。
しかし複雑になればなるほど、階層化が進行すればするほど、そのような途方もなく面倒極まりない作業をやってのけ、無限とも思えるチャイニーズ・ボックスをこしらえた何者かへの意識は、単一の「作者」の信頼や信奉へと収斂していくことになる。
そこで佐々木さんは「パラフィクション」を提唱します。
私の考えでは、それはメタと呼ばれてきた回路の軸足を、思い切って「作者」から「読者」へと引き渡すということである。
例えば、円城塔の作品がパラフィクションとなっている例だ、といいます。
読まれるたびに新たに生成し、そして生成し続ける小説。生成し続ける小説と言い換えても構わない。しかしもちろん、そのようなパラフィクションは、円城塔によって創始されたわけではない。それどころか、パラフィクションはメタフィクションの歴史と同じだけの、つまりはフィクションの歴史と同じだけの歴史を持っている。
パラフィクションについて、私には今ひとつ理解できませんでした。
円城塔さんの小説をきちんと読んできていない、ということもあるかもしれません。
先に読んだ『新しい小説のために』で提示された新しい視点を持った作家たちの新しさに比べると明確ではないように思います。
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ただ、佐々木さんは次のようにも書いているので、私にもそのうち少しずつわかってくるのかもしれません。
パラフィクションはさまざまに書かれうるし、実際に書かれているし、今後も思いもよらない姿で、私たちの前に顕れることだろう。パラはどこにでも生起するし、どこにでも存在する。何故ならばパラとは、特定の手法のことではないからである。それは一種の態度、いや、態度変更の別名なのだ。
『筒井康隆入門』に書いてあったのは、筒井さんが『ダンシング・ヴァニティ』『モナドの領域』でパラフィクションを実践したということ。近いうちに読まないといけません。(*2018.3.9訂正しました)
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パラフィクションは難しかったけど、メタフィクションについてはまとまった考察となっていて、興味深く読めました。
私はメタフィクションが遊戯的なものに過ぎないとしても、あいかわらず好きです。
語り口について最低限の自意識を持った小説でないと読めないなあ、と思うのです。