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『〈女帝〉の日本史』

原武史

 

昔は女性の天皇がいたのに、どうして現在は女性が天皇になれないのか。
疑問が解ければ、と思い、読んでみました。

 書き出しはこうです。

日本における女性の政治参加は著しく遅れています。実際、世界各国の議会における女性議員の比率をランクづけしたウェブサイト「Woman in national parliaments」によれば、日本は193カ国中164位という結果が出ています(2017年7月1日現在)。
このデータは、一院制の議会または下院(日本でいえば衆議院)の女性議員数を比較したもので、世界全体の女性議員の割合は23.6%であるのに対して、日本は9.3%と大幅に下回っています。東アジアのなかで比較しても、日本は72位の中国(24.2%)、117位の韓国(17.0%)、123位の北朝鮮(16.3%)に及びません。(略)
歴史的に日本よりはるかに儒教が根付いてきたはずの中国や朝鮮半島の国々の方が女性議員を多く生み出していることを踏まえれば、女性議員が少ない理由を儒教だけに求めることもできません。特定の政治思想に還元できない日本固有の事情があると考えるべきでしょう。

日本の女性議員の数がかの国北朝鮮よりも少ないとは知りませんでした。
まあ単純な比較はできないんでしょうけど、ショック。

それにしても、現代の女性議員が少ない理由を「女帝の日本史」から掘り出してこようというのはどう考えても無理筋ではないか。
少し心配になりながら読み始めました。

古代天皇制におけるの女性権力者は、3〜4世紀に活躍したとされる神功皇后にさかのぼれるそうです。
学説によれば神功皇后は実在しないそうですが、『日本書紀』において天皇と同格に扱われる皇后でした。
神功皇后の何がすごかったのかというと、応神天皇をみごもったまま朝鮮に戦争をしにゆき勝って帰ってきたというところです。
そして神功皇后は69年間にわたって摂政の地位にあったこととなっています(「臨朝称制」という)。
臨朝称制で有名なのは、実在の人物である前漢の呂后です。

中国では儒教経典の教えに反して、垂簾聴制や臨朝称制という形を通して名実ともに権力者として采配をふるった女性が、古代の呂后から近代の西太后(略)に至るまで断続的に存在したのです。

実在しない人物ではありますが、奈良時代に成立した『日本書紀』の神功皇后の扱いには、呂后を皇帝とみなした『史記』や『漢書』の影響があるのではないか、と原さんは言います。
中国に女性の権力者がいるのだから、わが国にも女性の権力者がいてもいいのではないか、と。

その後、日本では推古天皇、持統天皇など女性天皇が相次いで誕生しました。
さらに孝謙太上天皇が称徳天皇として二度目の即位をすることもありました。
また、持統天皇と同じ頃中国でも、中国唯一の女帝、武則天が誕生します。
女性の権力者がアジアに相次いで生まれた時代でした。

しかし称徳以降、江戸時代まで日本では女性天皇は登場しません。また、中国では、武則天以降、女性の皇帝はいません。その大きな理由に、公正になって武則天と称徳天皇の負のイメージが作られ、広まっていったことが挙げられます。
負のイメージとは、直截に言うと二人は「性豪」であるという見方です。

確かに孝謙天皇というと歴史を知らない私でも、道鏡のことを思い浮かべてしまいます。
そして武則天にも妖僧薛懐義を寵愛したというスキャンダルがあったということです。
彼女たちは性豪である、という話が繰り返し繰り返し語られることで、事実ではないとしても人々に女性の皇帝はだめだ、ということが刷り込まれていったのです。

平安時代以降、女性の天皇は生まれなくなりましたが、藤原氏から天皇の母として権力を持ちつづける女性は相次いで現れます。
武家の時代に入っても、北条政子が後家として権力を持ち続けたのを代表に、日野富子などが出現します。
形を変えながらも女性の権力者は登場していました。

徳川家康がすごいのは、女性が恐るべき権力者になり得ることを熟知していたということでした。

家康が恐れたのはみずからの死後、淀殿が北条政子のような存在になり、徳川家の存続を脅かすことだったのではないでしょうか。だからこそ大坂の陣とは、豊臣家を武力で滅ぼすとともに、「母」の権力を封じることで「父」の支配を確立させるための戦いだったように思われてならないのです。

そのうえ淀殿は淫婦として語られます。
称徳天皇と同じことが淀殿にも起きるのです。
後家として権力を持つことに対する悪感情が刷り込まれていきます。
さらに徳川幕府は身内の女性からも権力者が出ないシステムを作りあげていきます。

つまり、江戸城内では、正室である御台所はもちろん、大奥を取り仕切る御年寄も含めいかなる女性も権力の頂点に立つことがないよう、体制が整えられていったのです。

明治に入ると天皇制の改革がなされましたが、当初の草案では女性天皇、女系天皇を認められていたものの、井上毅の男尊女卑は当たり前という反対により、男系男子による皇位継承のみとなりました。

当時の議論を踏まえながら原さんはこう書きます。

明治初期の日本では、ヴィクトリア女王が君臨していた同時代のイギリスとはもちろん、皇后や側妃や王后が皇帝やこくおうを上回る権力を持っていた同時代の中国や朝鮮とも異なり、女は男の上に立つことができないという言説が説得力をもってしまうほど、女性が権力から遠ざけられていたことに注意しなければならないでしょう。

その後、歴代の皇后たちが権力からみずから遠ざかり、ただ祈る存在になっていくことが描写されます。

原さんは最後にこうまとめます。

日本で近代以降に強まった、女性の権力を「母性」や「祈り」に矮小化してしまう傾向は、皇后や皇太后が「神」と天皇の間に立つことを可能にする反面、女性の政治参加が憲法で認められたはずの戦後にあっても、女性を権力から遠ざけるという影響を及ぼしているように思われます。
男系イデオロギーによって隠蔽された女帝の日本史をもう一度掘り起こし今なお根強く残るジェンダー役割分業感を歴史的に相対化する視点を養わなければなりません。

自分自身をかえりみても、女性が権力を持つことに対して、いやな気持ちにならないとはいえないです。
例えば都知事のような人を見ると、少し違うんじゃないか、と思ってしまう部分がある。
女性に「母性」や「祈り」を求めてしまう、というのは、現代においてもアニメやJPOPや小説やいろんなメディアで再生産されている構図です。
しかしそれが普遍的なことではなくて、日本の近代に特徴的なことだとしたら。
自分の感情や傾向がシステムに刷り込まれたものにすぎないとしたら。
自明とされていること、あるいは見えなくなっていることをひっくり返して見せてくれるこの本、おもしろいです。
それにしても、女性天皇は結局なぜだめなんだろう……

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