「風と共に去りぬ」
監督 ヴィクター・フレミング
*この記事にはなんとなくネタバレがあります
学生時代の終わりから社会人になりたての頃にかけて、『大アンケートによる洋画ベスト150』という本を片手に、レンタルビデオ屋でビデオを借りてきて16インチくらいのテレビで上位からかたっぱしに見ていました。
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いま考えれば、実にくだらないことをやっていましたが。
この映画は、その本で4位だったので見ました。
1位の『天井桟敷の人々』と並んで上映時間が長かった記憶があります。
映画館で上映するというので、それなら途中でだらけることもなく見ることができそうだと思い、行ってみました。
予想していたよりはるかに混んでいました。
最初がそんな修行みたいな見方だったから何も覚えていないとは思っていましたが、それにしても筋をすっかり忘れていました。
前半の終わり、南軍の敗戦ですべてを失ったスカーレットが畑に立つ部分がラストシーンだと思いこんでいました。
後半、スカーレットが材木商としてのし上がっていくところや、不幸が連続するジェットコースター的展開をまったく覚えていないのは、半分寝ていたのにちがいありません。
登場人物が多くて関係が分かりづらかった、というおぼろげな記憶があったけれど、むしろ出てくる人物はこれだけの長い映画の割に少ない。
何より、カット割りが短いのに驚いた。
『シン・ゴジラ』ほどではないにしても、昔の映画(あまりにもざっくりだが)としてはかなり細かいのではないでしょうか。
アニメは子どもを飽きさせないようにカット割りを短くしている、という話を訊いたことがあります。
4時間にもなろうとする上映時間なのに、まったく飽きさせない。
物語の最初から最後まで、スカーレットはずうっとアシュレーのことが好き(少なくとも意識の上では)で、ストーリーはそれを軸に回り続けます。
どうしてスカーレットがそこまでアシュレーのことか好きなのかが分からない。
レット・バトラーとアシュレーではどう見てもレットの方が魅力的に見えるし、そう描いている。
しかし、人が誰かを好きになるということに、明確な理由はないのでしょう。
アシュレーがスカーレットではなく、メラニーを愛しているということがその原因だったのかもしれませんね。
昔と比べると、男女の機微がそれなりに分かるようになった今日この頃(何の役にも立たないが)。
映画の中にあるさまざまな「ほのめかし」がよくわかり、なかなか楽しい。
南北戦争の終結が1865年、ミッチェルの小説の刊行が1936年、この映画の初公開が1939年。
ついでにいえばナポレオンがモスクワから敗走したのが1812年、トルストイ『戦争と平和』が1869年。
戦争を総括するのには、それくらいの時間がかかるものです。
『神聖喜劇』『この世界の片隅に』などがあるにしても、物語として日本が先の戦争をきちんと総括できているのか、疑問ではあります。
これからでもいいから、日本にもこのような作品が現れてほしいなあ。
これが『風と共に去りぬ』を最後に見る機会かもしれないと思うと、感慨深いものがあります。
たぶん家でDVDで見ることはなさそうだから。
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