I・カント 宇都宮芳明訳(以文社)
村上春樹の小説で主人公が『純粋理性批判』を読んでいるのを読んで以来、カントは読まなくてはいけないと思い、入門書やらは読んだことはあったものの、恥ずかしながら原典に初めて当たった。
柄谷行人も竹田青嗣も加藤典洋もカントを重要視しているのも理由。
カント哲学の初級編と言うことらしいこの本を手に取った。
数学の証明のような構成である。
粘り強く証明しようとし続ける。誰も証明したことのないことを何とか証明しなくてはいけない、という熱意。
正直言って、証明がうまくいっているのかはよく分からない。
しかし善と自由について必死に書かれた文章を読むと、今の時代にも明らかに通用することが分かり、多くの人たちがカントを引用するのも分かるというものである。
善い意志は、それが引き起こしたり達成したりする事柄によって善いのでもなければ、それがなにかあらかじめ設定された目的の達成に役立つことによって善いのでもない。そうではなくて、善い意志はただ意欲することによって善い、つまりそれ自体において善いのであって、、この善い意志は、それだけをとりだしてみると、この意志がなんらかの傾向性の、いなそれどころかすべての傾向性全体の満足のためにもたらすかもしれない一切のものよりも比較を絶して高く評価されるべきなのである。(17)
このことについてカントはしつこいくらい証明をしようとする。
今の時代ならばちょっと気の利いたことを特段裏付けもなく言っておけばそれなりに評価が得られるのだろうが、カントはとてもがんばる。
そしてそのおかげで説得力を持つのだ。
といいつつ、私は物事をどうしても単純化、俗化して考えないと理解できないので、ここは「結果よりプロセスが大事」とだいたい同じだろうと考えた。
さて、この「善い意志」とはなにか。
つまり私は、私の格率が普遍的法則となるべきことを私はまた意欲することができる、という仕方でのみふるまうべきである、ということになる。(31)
これまた俗化した私の理解では、どんな場所においても同じやり方でできる振る舞い方をしなさい、ということになる。
「ぶれない」という言い方があるが、そこからさらに、考え方をじっくり吟味して誰もが時代を超えて正しいとする振る舞いをしなさい、といっていると思う。
さて、最上の原理として、有名な次の文章が出てくる。
汝の人格やほかのあらゆるひとの人格のうちにある人間性を、いつも同時に目的として扱い、決して単に手段としてのみ扱わないように行為せよ。(85)
人間は理性を使用し存在すること自体が目的なので、他の「もの」とは別である。「もの」については私がなにかの行為を達成するための手段として利用することはできるが、他の人を「もの」と同じように手段とだけ考えてはいけない、ということだと思う。
改めて読んで、あらっと思ったら注解にもあったのだが、「カントは他人を手段として扱うことも認めるが、しかしその場合にも他人が同時に目的それ自体であることを無視してはならない」と言っている。
こういうところが「カントは分かってるなあ」と思うところである。
実際世の中で他人を手段、つまり道具みたいとして考えなくてはいけないときがある。
それは認める。
ただ、手段としてだけ考えちゃだめだぜ、他の人も人なんだから、と言っているのか。
後半は自由についての議論で、私には結構難しかったけれども、感性界とか悟性界などカントの考え方の枠組みが書かれていて、これからカントを読むのには参考になる部分と思われる。
とにかくある程度がまんして読めばやけに今の自分に役に立つことが書いてあるので、おすすめできる。
続々と出ている生き方指南本なんかより具体的に役立つ。
いくつかの訳が出ているが、この本は訳者の注解が各項目ごとに書かれていて理解しやすいと思う。
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