村上春樹
村上春樹の新作は『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』や『海辺のカフカ』のように、二つの話が交互に平行して進行していくスタイルの長編小説でした。
スピード、サスペンス、そして闇。
暴力や邪悪なものとどのように拮抗していくのか、ということが描かれています。
このあたりも今までの著者の作品のテーマを押し進めているもののようでした。
主要人物の一人、宗教団体「さきがけ」の「リーダー」は「羊男」的であり、綿谷ノボル的でもあります。
そういえば、『ねじ巻き鳥クロニクル』に登場した牛河氏も出てきます。
作品中で重要な役割を果たす小説『空気さなぎ』はとても謎めいています。
その小説に対する書評は次のように描かれ、主人公の一人天吾は次のように考えます。
「物語としてはとてもおもしろくできているし、最後までぐいぐいと読者を牽引していくのだが、空気さなぎとは何か、リトル・ピープルとは何かということになると、我々は最後までミステリアスな疑問符のプールの中に取り残されたままになる。あるいはそれこそが著者の意図したことなのかもしれないが、そのような姿勢を〈作者の怠慢〉と受け取る読者は決して少なくないはずだ。この処女作についてはとりあえずよしとしても、著者がこの先も長く小説家としての活動を続けていくつもりであれば、そのような思わせぶりな姿勢についての真摯な検討を、近い将来迫られることになるかもしれない」と一人の批評家は結んでいた。
それを読んで天吾は首をひねった。「物語としてはとてもおもしろくできているし、最後までぐいぐいと読者を牽引していく」ことに作家がもし成功しているとしたら、その作家を怠慢と呼ぶことは誰にもできないのではないか。(Book2)
『ねじ巻き鳥クロニクル』は確か最初の2巻までが出たとき、この批評のような厳しい攻撃にさらされたのでした。
謎を放置しているのは小説家としての倫理観の欠如である、みたいなもの。
それを引き取るように作者は完結編として3巻を出した、という経緯があったように思います(批判を受けたから書いたのか、因果関係は分かりませんが)。
村上春樹が批判されるのは謎を推進力にして小説を進行させていくことはいいにしても、その謎を結局突き詰めないまま終わらせてしまう、という点が多かったように思います。
したがって、この作中小説に対する作中批評は、村上春樹自身によるパロディとも読めます。
しかしながら、小説を読み終わったとき、この引用箇所はこの小説自体への批評とも思えるのです。
謎は謎のままであるように見えるからです。
しかし、私にはこれはこれでいいように思うのです。
先ほどの引用箇所で天吾は続けてこう思います。
その実在(「空気さなぎやリトル・ピープル」引用者注)を受け入れられるかどうか、というのが何より大きな意味を持つことだ。そして天吾にはそれらの実在性をすんなりと受け入れることができた。
小説中の物語が物語を浸食するという、複雑な構造の小説。
ポイントは物語をきちんと受け止められるかどうか、ということ。
もし受け止められないのであればそれはそれでしょうがないのだと、いつもにもまして作者は考えているのでしょう。
こういう姿勢だと、またかなりの批判は浴びそうではありますが。
分かるやつだけに分かるものを書いているのか、みたいな。
『空気さなぎ』を読み終えて「ミステリアスな疑問符のプールの中に取り残されたままに」なっている善男善女に対し、天吾は同情の念を抱かないわけにいかなかった。カラフルな浮き輪に捕まった人々が困った顔つきで、疑問符だらけの広いプールを当てもなく漂っている光景が目に浮かんだ。
私には「空気さなぎやリトル・ピープル」が現れるにふさわしい「きつい」状況がきちんと描かれている、と思えました。
これほど厳しい孤独が村上作品ではあまり書かれたことはなかったように思うのです。
こういった部分に限らず、この作品はある意味「無防備」に書かれている作品だと思えました。語句の使い方のレベルから、SF的な設定に至るまで、批判的な人から見ればあまりに突っ込みどころ満載なのかもしれませんが、そんなことどうだっていいじゃん、といった域。
書きたいことを書きました、といういさぎよさ。
とりあえず、もうしばらく放置してから読み直そうと思います。
村上春樹の小説はいつもそのように読んできました。
いろいろな批評や謎解きも出てくると思いますから、それを楽しんだあとまたじっくりと読んでみます。
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