乗代雄介 講談社
引用がある文章は好きです。
よいタイミングで引用が入ってくる文は、編集のすばらしい映画を見ているようです。
著者とは別の声が、奥行きを出しているのかもしれません。
評論では引用はあたりまえですが、小説でも例えば大江健三郎さんの作品で効果的に引用がされています。
覚えているのはウィリアム・ブレイクの詩や『神曲』の一節など。
自らの昔の小説からも引用していました。
引用されている内容がよくわからないこともあるけれど、かっこいいなあ、と思いながら読みました。
この本はタイトルからエッセイなのかと思っていましたが、表題作と『未熟な同感者』の二つの小説が入っています。
『本物の読書家』
「わたし」は、大叔父を老人ホームに送り届けるため、ふたりで上野から常磐線快速に乗った。
大叔父は、川端康成の手紙を持っているという噂のある人だった。
たまたまボックスシートの隣に乗り合わせた、崎陽軒のシウマイ弁当を食べる男と会話をすることになったが、その会話が進むにつれて大叔父の川端に関する秘密が明かされていき……
カフカ、サリンジャー、柄谷行人、太宰治、そしてシャーウッド・アンダソン『黒い笑い』。さまざまな作品から引用がされていきます。
超人的な記憶力を持つ登場人物が車内で突然文章を諳んじたり、引用のしかたもいろいろ。
こんなに引用のしかたがあるのか、と驚きました。
ストーリーはミステリー仕立てなので推進力があり、ピンチョンのようなパラノイア的陰謀論の話にもなります。
『未熟な同感者』でも引用は重要な要素です。
しかしこの作品で大きな部分を占める引用は「「私」に送りつけられてきた、作中の登場人物である准教授による主にサリンジャーに関する講義のノートをもとにした講義内容の再現」という回りくどさがあります。
したがって、その引用文自体は作者が書いているわけで、一筋縄ではいきません。
そしてその講義自体にも保坂和志やらサリンジャーやらの引用があるのです。
ストーリーは大学生たちの青春(といってもどろどろ)の話。
読後感は映画『桐島、部活やめるってよ』を見たときとよく似ていました。
文体は難解だし、引用の意図も簡単には理解できない(特に『未熟な同感者』)。
大事なことが書かれているのかもしれないし、単に思わせぶりなのかもしれない。
だけど、引用文と地の文の対照や落差がとてもおもしろくて、小説を読んだなあ、という気になります。
私にとっての小説の価値は「何について書かれているか」ということよりも、「どのように書かれているか」ということにあるので、そう感じてしまうのかもしれませんけど。