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『ナイン・ストーリーズ』

J.D.サリンジャー 柴田元幸訳

学生の頃、野崎孝訳の『ナイン・ストーリーズ』を読んだことを覚えているが、小説の内容よりも、読んでいた情景ばかりが思い出される。
学校から帰る夕方の電車の中で座って読んでいた。ふっと本から眼を離して車内を見渡した。そんな情景。
書店で柴田元幸全編新訳と題された『モンキービジネス』を見つけてすぐ入手した。
柴田元幸の訳が好きなので。
で、再読した。

『笑い男』と『エズメに――愛と悲惨をこめて』に特にやられた。
学生の頃読んだときと違うポイントでじぶんが惹きつけられているのだろうな、と思った。
たとえば『エズメに――」の、このような箇所だ。
X=アメリカ兵の「私」はドイツのバイエルンにある民家にいる。

アメリカ軍が接収したのであろう。

 Xは額から手を放して、書き物机の表面にぼんやり目を向けた。机の上には、すべて彼にあてられた少なくとも二ダースの未開封の手紙と少なくとも五、六個の未開封の小包がごっちゃに載っていた。その瓦礫の山の向こうに彼は手を伸ばし、壁に立てかけてある一冊の本を取り出した。それはゲッペルス著の、『未曾有の時代』と題した本だった。何週間か前までこの家に住んでいた一家の、三十八歳の未婚の娘の持ち物だった本である。彼女はナチスの下級党員だったが、軍規則からすれば<自動的逮捕>の範疇に入る程度に上級ではあった。彼女を逮捕したのはX自身だった。そしていま、今日病院から戻ってきて以来三度目、彼はその女の本を開いて、見返しの白いページに書かれた短い書き込みを読んだ。インクで、ドイツ語で、小さな、どうしようもなく誠実な筆蹟で、「神よ、人生は地獄です」と書いてあった。そこに至る前のことばも、そこから続くあとのことばもない。ページの上に言葉はぽつんと孤立して、部屋を包む病んだ静けさのなか、反論の余地なき古典的ですらある告発の威信を有しているように見えた。Xは何分かぼんやりそのページを眺めながら、負けいくさとは知りつつ、、なんとかその言葉に丸め込まれまいとあがいた。それから、この何週間か一度も見せていなかった道徳的熱意とともに、短い鉛筆をとりあげ、書き込みの下に英語で、「父たちと教師たちよ、『地獄とはなにか?』と私は問う。私は思う、それは愛することができぬ苦しみだと」と書いた。そのしたにドストエフスキーの名を書きかけたが、そのとき、体の全身を走り抜ける恐怖とともに、書いた言葉がまったく判読不能であることに気がついた。彼は本を閉じた。

長い引用だけれど、この小説の肝がここにあるのだろう、ということに今は気がつくことができる。
「悲惨」についてきちんと定義された部分はここなんだな、ということ。
読み終わったときに、見覚えがある、ひどく遠く離れた場所に連れ去られているじぶんに気がついた。
学生の頃電車の中で読んでいたときも、きっと同じように遠くに連れ去られていて不安になり、居場所を確認したかったから、まわりを見回した。その記憶だけが残っているのか。
今までなんどもこの小説集を読み返そうとして、結局この新訳が出るまで読まなかった。
それはこれを読むとじぶんが取り返しのつかないくらい遠くに行ってしまうからだ、ということを知っていたからだ、と読み終わってからわかった。
麻薬のような小説。

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