『フロイト思想を読む』竹田青嗣・山竹伸二(NHKブックス)
フロイトは興味があり、『夢判断』や『精神分析入門』、それに解説書もいろいろ読んだがいまいち腑に落ちなかった。
そのフロイトをを竹田青嗣が解説してくれそう、というので読んでみた。
読んでみると、少なくとも私にとっては重要な本のように思えた。
そして、その重要性は主として山竹伸二の書いた部分に多かった。
フロイトの考え方のポイントは、人間の存在は常に欲望の葛藤をめぐる運動にある、という。
欲望とはどんなものか。フロイトは「性的欲望」と「道徳心」の葛藤だとしたが、山竹はさらにそれをこう分類する。
*「身体的快」・・・身体の快感や安全の確保など、からだの快適性全般が対象
「関係的快」・・・愛情や友情など、他者との関係性における喜び全般が対象
「自己価値」への承認欲望・・・自分の存在に価値があると実感する喜びが対象。厳密には「自己価値」への欲望とは「自己価値への承認欲望」である
(p149。*はp147から引用)
そして、この欲望についてはフロイトの性発達論にあてはめて、次のようなプロセスが想定できる、という。
親との間でのルールを守ることによって自分には価値がある、と感じることができるようになるが、大人になるにつれ親以外の新しい価値観やルールにより、それまで絶対的だった親のルールや価値観が修正され、価値の一般性を吟味する際に想定される他者、「一般的他者」の視点を得ることができるようになる。
これは納得できる話だと思った。
私は、どこかに一般的他者の視点を置いて、それに誉められるような行動をとろうとしている。きっと「一般的他者」はひとによってまったく異なるものなのだろうけれど。
さて、この一般的他者の視点をどのようにして獲得するのか。
フロイトの「エディプス・コンプレックス」がその契機なのだ、という。
父親がこどもの近親相姦願望を禁止し、子供がそれを受け入れるという話は、言わば二者関係の甘えを脱し、社会のルールを受け入れる象徴的な物語として受け取る必要がある。
一対一の関係においてはそれが価値のあるものなのか、確信を持つことができない。一対一の閉じた関係に第三者の視点を入れること、それは自己価値への承認欲望を満たすことができる契機となる、というのだ。
これもわかるなあ。
自分だけが楽だとか、気持ちよくても、それが周りの多くからブーイングを受けるような行為はいやだもんねえ。
*エス・・・混沌とした欲望の集積
自我・・・理性を代表するものであり、外界(社会規範、世間的な価値観)の影響を考えてエスの衝動を抑制しようとする。
超自我・・・内的規範。無意識的な自己批判、良心、罪悪感
つまり、「エスと超自我の葛藤」および「エスと外界の葛藤」は、いずれも「『~したい』と『~ねばならない』の葛藤」に還元できる。(p198)
ここで『~ねばならない』という自己ルールは親子関係から強く反映されたものだが、これが一般性に乏しいものであると、いわゆる心の病や、人間関係の軋轢を生むものになってしまう。成長に伴ってうまくそのルールが修正、変更されてくれればいいが、それが「無意識」にあるかぎり、つまり自覚できていないと、問題になるケースが多いという。 つまり、「『~したい』と『~ねばならない』の葛藤」を自己了解し、きちんと向きあえば、どちらが納得できるものなのか、考えられるというのだ。
*当為・・・『~ねばならない』
すごーくながーく引用してきてしまったけれど、まさに生きることというのはこの言葉に尽きてしまうような気がする。
ひとりではつらい。だれかに自分をわかってもらいたい。信頼できる誰かがほしい。それは自分のためである。そしてそれを通じて、また別の視点から第三者を引き入れて、自分のことを考えなおす。
毎日毎日、そんなふうにして生きているのだ、とこの本を読んで了解したのだ。
このシンプルな考え方を、しばらく生きていくうえでの原理にしていってみようかな、とちょっと大げさに思ったりしたのでした。
フロイト思想を読む―無意識の哲学 (NHKブックス 1108)