吉本隆明
荒川洋治の『文芸時評という感想』でこの本について書かれていたので読むことにした。
以前、吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』を読んでみたが挫折したのだが、それにつながるもので、「読者に無理のないように構成されているので、読みやすい」と荒川さんが言っているので。
前半「言葉以前のこと」については、話のまくらとしては長すぎるし、科学的であるようなオカルトであるような妙な話も多いのであまり好きではなかった。
興味もあまり持てない話だし。
「言葉の起源を考える」からおもしろくなった。
神話について。
『古事記』でお妃が「じぶんの子供たちに『うちの旦那が陰謀でおまえたちを殺そうとしているぞ』と教えるために」次のような歌を詠んだ、という話。
狭井河よ 雲立ちわたり 畝火山 木の葉さやぎぬ 風吹かむとす
「狭井河」は三輪山のそばにある川です。この歌はすべてが自然描写で、山に雲があって、風が吹いているといっているだけです。しかし当時の人にはそうは聞こえない。「あのあたりで陰謀をやっているぞ」という意味に受け取ったわけです。
ぼくらが神話を読むばあいは、自然を描写した比喩で何かを物語っているように読んでいますが、おそらく当時の人は逆です。自然を描写する以外に、「あいつは陰謀でおまえを殺そうとしているぞ」という言い方はなかったとかんがえるのが正しいとおもいます。
つまり、古い日本語では抽象的な言葉(=あいつは陰謀でおまえを殺そうとしているぞ)は存在せず、自然を描写することによって抽象的な内容を表現するしかなかった、という。正しいのかどうかはわたしにはわからないけれども、風通しの良くなるような考え方で、わたしは好きだな。
そして、キモとなる部分。
われわれの言語美学的考え方からすると、まずはじめに〈韻律〉が根底にあり、それから場面をどう選んだかという〈撰択〉があり、表現対象や時間が移る〈転換〉ということがあります。そして、メタファー(暗喩)やシミリ(直喩)などの〈喩〉があるわけです。この四つは言葉の表現に美的な価値を与える根本要素になるわけです。
以上の四つ(さらに〈パラ・イメージ〉という上方からの視点のイメージを付け加えて五つとしてもよい)の要素で文芸作品を評価すべきであって、たとえば「主題」などという要素は考慮する必要はない、というのがこの本の(そしておそらく『言語にとって美とはなにか』の)ポイントとなる部分だ。
これは過激な話で、簡単に受け入れていいものか、そして、じっさいにこの方法をどう具体的に扱っていくべきなのかかんがえてしまうところだが、ふつうの小説や詩を読む方法をひっくり返す視点であるために、これからはこの考え方が常に自分の中に入ってしまいそうだ。
いずれにせよ、『言語にとって美とはなにか』をそのうち読まないとね。
[amazonjs asin=”483982018X” locale=”JP” title=”詩人・評論家・作家のための言語論”]