ラディゲ 中条省平訳
この本も再読だが、前に読んだときは確か新潮文庫で読んだ気がする。
それも高校生の頃だ。
物語の筋書きだけを取り出せば、凡庸きわまりないものです。早熟な少年が、人妻に恋をし、その夫が戦争に行っているのをいいことに肉体関係を続け、彼女の生活をめちゃめちゃにしてしまう、というものです。(「解説」から)
ラディゲがこの小説を書いたのが17歳から18歳の頃で、同じ歳だったわたしはこれほどの小説がひょっとしてわたしにも書けるのだろうか、と少しわくわくした記憶がよみがえってきた。
ラディゲは20歳で亡くなってしまい、わたしはその倍以上の歳をとり、もちろん小説なんか書かないでここまで来たわけだが、改めて読み直して、この小説のすごさに打ちのめされた。
ほんとうに打ちのめされる。
これが18歳の少年が書いた、ということ抜きにして、どうしてここまで冷徹にこころが分析されてしまうのか、という驚きである。
たぶん、ふつうの人だってこころの分析をして文章にすることはできる。
だが、それは人体の解剖をしたけれど、取り出した内臓などはもう姿形もない、ぐちゃぐちゃな臓物に過ぎないだろう。
ラディゲはまるで模型のように、これが心臓、これが肝臓、というように美しく身体の中から取りだしてくる。
取り出された文章はすべて自分のことなので、読み進めることができなくなる。
ここまできちんと取り出さなくても、と思ってしまう。
自分の汚さや、いい加減さ、残酷さを鏡に映されて、いい気持ちではいられない。
まだ自分がまともだと思っていた高校生の頃ですら、きっとつらかった。
汚れちまったことを自覚している今、この小説を読むことはほんとうにつらい。
だが、いっぽうで感心してしまうしかないのである。
天才っているんです。
引用したい文章ばかりであるが、ひとつだけ。
心の中に理性には見えない筋道があるとき、心は理性より筋道の通った行動をする。そのことを認めなければならない。たぶん僕たちはみんなナルシスなのだ。水鏡に映った自分の姿を愛することもあれば憎むこともあるが、他人の姿は目に入らない。自分の姿との類似を見分ける本能が、僕たちを人生の中で導いてゆき、ある風景や女性や詩の前まで来たとき、「これだ、ここで止まれ!」と僕たちに叫んで教えるのだ。ほかの風景や女性や詩の場合、それをいいと思うことはあっても、本能の叫びのような衝撃を感じることはない。自分との類似を見分ける本能だけが、真実の導きの糸になる。