『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ 柴田裕之訳
この本は内田樹さんのブログで知った。
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内田さんのブログがとても気持ちのいいものだったので、それをもう一度味わいたい、という気持ちで読んでみた。
しかし内田さんも書いているとおり、とんでもなく分厚くて、しかも『イーリアス』はもとより各国の古代の歴史をひもといて証明する本で、太刀打ちができなかった、というのが正直なところだ。
ただ、私なりにもなんとか読めて、爽快感を味わった。
「二分心」がキーワードである。
「二分心」とはなにか。
「遠い昔、人間の心は、命令を下す「神」と呼ばれる部分と、それに従う「人間」と呼ばれる部分に二分されていた」(p109)
あ、同じ部分を引用してしまいました。
この「神」が人間社会が複雑化していく中で「意識」に変化した、というのがあまりにも大ざっぱだけどこの本が提示した仮説である。
それは統合失調症の「幻聴」などに今でも残っているし、古代の文化、それに「イーリアス」のことばの使用法でも証明できる、とジェインズは言う。
うーむ。
どう考えても内田さんのブログのほうがうまくまとめているので、詳しくはそちらを読んでもらいたい。
私はこの仮説を導くジェインズの手さばきがとても読ませるので、まずそれが好きだ。
そして、この仮説をけっこうまともに受け止めたい、と思う。
意識というものが大して歴史的に古いものではない、と考えるのは、じぶんがくよくよしていたりするときに役に立つ。
こんなふうにくよくよしている、風通しの悪い状況というのはしょせん過渡期であって、昔の人は神様が頭の中で指示を出してくれてそれに応えて動いていたんだ、そんなに考えてもしょうがないぜ、とじぶんをむりやり言い聞かせたり。
もしくはこういう「意識」自体が歴史的なものであって、何千年後の人間は想像もつかない全く別のやり方で生きていくのかも知れない、と思ったり。
とにかく今の私は「私」というもの=自意識がうっとうしくてしょうがないので、風穴が空いた気分なのだった。
いずれにせよ、またいつか読みます。
も少しまともに書けるように。
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