村上春樹の訳したレイモンド・カーヴァーの短篇集を何冊か買って、順番に読むことをせず、適当に(解説なども参考にしながら)読んでいく。
これって好きなミュージシャンのアルバムを何枚か買って、シャッフルで聴いているのとよく似ている。
いままでこんな読み方をしたことはなかったが、今はこの読み方がとても気に入っている。
カーヴァーの小説に出てくる人たちは多かれ少なかれ、うまくいってない。
これは以前イーユン・リー『千年の祈り』を読んだときも同じことを書いた。
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カーヴァーの小説ではそのうまくいかなさが、必ずしも明確になっていない場合もある。
なんとなくおかしいな、うまくいかないな、くらいの感じを書くのもうまい。
もちろん完全にどん底の状態の人たちもいる。
そしてその人たちが小説の中で希望などを与えられるか、というと必ずしもそうではない。
というより、たいがいが絶望的なまま投げ出されて小説が終わっている。
しかしこれが文学の力、というものだと思うのだが、中途半端な前向きさを見せられるよりは、元も子もない絶望を見せつけられたほうが読んでいる人間に勇気や、やる気や、そこまでいかないにせよ何らかの「兆し」が見えてくることがある。
カーヴァーの小説をシャッフルで読んでいて感じるのはそれだ。
手垢の付いた言葉で言えば「癒し」だ。
なぜカーヴァーの小説を読んでいて癒されてしまうのか、わからない。
わたしじしんがまったくうまくいってないことは確かだ(まあ、自分の責任でこんな状況にしたのだが)。
しかしカーヴァーの小説に出てくる人たちはうまくいってなくても生きている、それに励まされる、というのはちょっと理屈っぽすぎるかも知れない。
カーヴァーに出会うのがあまりにも遅すぎたけど、この短篇集=アルバムの小説たちとは死ぬまで今みたいな読み方で、つまりIPODで音楽を聴くみたいにつき合っていくことになる、と思う。
リピートしたりしながら。
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