庄野潤三
高校生の頃は友だちのいない、いやなやつだったから(今もあまりいいやつとは思えないけど)、『現代国語便覧』といった現代国語(そんな教科は今も存在するのだろうか)の副読本に載っていた芥川賞歴代授賞作とか、近代文学年表に載っている作品を読んでは、そこに印を付けた。
でなければ、こんな本をたぶん読むことはなかっただろう。
文庫の奥付は昭和57年4月30日 24刷と書いてある。
この本も村上春樹の短篇案内に導かれて再読した。
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文庫に収録されているうち『舞踏』『プールサイド小景』『静物』を読んだ。
ちなみに庄野潤三は『プールサイド小景』で第32回芥川賞を受賞している。
村上春樹はこの三作についてこう言っている。
「舞踏」と「プールサイド小景」といった初期の作品を初めて読んだ人はおそらく、「この人がこういう方向でこれからどんどん成熟して伸びていけば、ほんとうにすばらしい小説家になるんだろうな」と考えるのではないでしょうか。そのような来たるべき小説を手にとって読んでみたいと思う。僕もそう思いました。ところがそういう方向には行かない。
「静物」に行っちゃうわけです。
いや、僕は何もそれを非難しているわけではありません。「静物」は文句なく素晴らしい作品だし、僕は大好きです。ただ、ああ、行っちゃったんだなと、それだけです。(『若い読者のための短篇小説案内』)
『舞踏』や『プールサイド小景』と『静物』とは同じ家族、しかも若い夫婦を中心とした話であるけれど、前の二つの作品がどこかで社会つながろうとする、ピュアでないものを含んでしまっているようにみえるのに対し、『静物』はまさに静物画のように、その小説として完結し、不要なものは排除してしまっているようにみえる。
『静物』の文体はまさに「そぎ落とされた」という感じで、それに対しつっこむべきところはなにもない、というほどある意味では完成されているように思える。
しかし、あまり元気のないときに『静物』を読むと、かえって滅入ってしまうような気がする。
というか、滅入った。
自分に余裕があれば、まさに絵を「鑑賞」するように読むことができるのだろうが、やはり読みどきというものがある。
『千年の祈り』のような、ハードな短篇集のほうが力を与えてくれるような気がする。
もちろん、日本語として、また、短篇小説としてはひとつの達成ということはまちがいないのであって、これを利用することは可能と思われる。
いずれにせよ、また改めます。
それにしても気になるのは、夫婦の機微やらを書いたこれらの小説を、高校生の私がいったいどう読んだのか、ということだ。
たぶん何も読んでいなかったのだろう。
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