イーユン・リー(篠森ゆりこ訳)
以前に著者については紹介した。
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そのあと、ほんとうにじっくりこの短篇集を読み続けた。
小説の力を感じた。
そのうえ、自分の生き方のいい加減さが恥ずかしくなる。
登場してくる人たちは、みんな何かしらうまくいってない。
家族とも、恋人ともうまくいってない。
うまくいかないのは運のせいだったり、国のせいだったり、いろいろだけれど何よりも他の人たちとうまくコミュニケーションをとれないのが原因のように思える。
もっとうまくできそうなのに、結局他の人と通じ合うことができなくて、傷つけたり、傷つけられたりして状況が悪化していく。
『市場の約束』の主人公三三(サンサン)は32歳の女性の教師。
かつて、天安門事件のせいでアメリカへ行く夢を断たれた女ともだちのために、三三が子供の頃からずっとつき合い、結婚を約束していた男、土と偽装結婚させて出国させる計画を立てた。
そのあと男はアメリカで離婚し、中国に戻ってきて三三と結婚する、という計画になっていたのに、アメリカに行った二人はそのまま結婚してしまい、三三は捨てられてしまう。
土が出発するまでにセックスしておくべきだということに、三三は気づかなかった。実のところ土は求めてきたのだが、拒んだのだ。大学の授業で『恋する女たち』を読んだことを思い出したのである。その物語のある部分が、ずっと心に引っかかっていた。登場する姉妹のうちのひとりが、戦争へ行く前の恋人と寝るのをことわる。絶体絶命のときに女が欲しくなっては行けないと思って。でも土は戦争に行くのではなく、別の女と結婚生活を送るのだった。薄いドアをへだてただけのおなじ部屋で、美しい女のからだが食べ、眠り、おしっこをし、月経を迎えているのに、男が恋をしないでいられるわけがない。
結婚生活を続けるつもりだという短い手紙を最後に、二人からの便りは絶えた。
たとえセックスしていたとしてもだめだったのかもしれないが、三三はやはりうまく生きられず、それをずっと心に抱えつづけて生きている。
こんなふうに登場人物の誰もがみんなうまくいかないで、躓きながらそれでも生きている。
しかし、読んでいるうちになんでもうまくいっている人の方がかえって珍しいんじゃないかな、という気になってくる。
人間の初期設定は、コミュニケーションを含めて何もうまくいかないようにできているのかもしれない。
ただ、それを抱えてどうやって生きていくのか、自分の人生にどうやって向き合っていくのか、とこの小説を読んでいると考える。
私は人のせいばかりにしているなあ、と思う。
人のせいにしても、何も解決はしない。
あきらめるのではなくて、うまくいかないことから眼をそらさずに向き合うこと。
それはとても気高い行為なんだ、ということが実感されてくる。
三三は駅で男を見かける。「十元で一回、私の身体の好きなところを切ってよい。一回でわたしが死んだら金はいらない」と自分の指を切って段ボールに字を書いた男だ。誰もが新しい物乞いだ、と思う。三三の母親(煮卵を作っている)が、金だけ差し出すが、「おれは乞食じゃありません」と男は断り、母親の足下に札を返す。
その札を三三がひろい、男のそばへ歩いていく。男が彼女を見上げ、彼女はその目を見かえす。男は黙ってナイフを彼女の手に乗せる。三三は男の身体をじっくりながめる。なめらかな肌は日に焼けていて、傷口から静かに血が流れている。まず一本の指で上腕に触れ、軽く押してみて見当をつけてから、三三は指先を肩へ這わす。傷口の肉をなぞると、男は少しふるえる。
「ちょっと。おまえ正気かい」母親の声だ。
優しく愛撫するような指の下で、男の筋肉がほぐれる。やっと会えた。何年さがしてもいなかった。約束とは何かを知っている人。気がおかしいと世間は思うかも知れないけれど、私たちはもう孤独じゃない。これからはずっとおたがいがいる。これが人生の約束だ。これが醍醐味だ。
「心配しないで、母さん」母親に笑顔を向け、それから男の肩にナイフをあてる。そして、切る。愛とやさしさをこめて、肉をゆっくりとひらいていく。
自分の人生のどうしようもなさに目をそらさずに生きてきた人こそが、約束とは何かを知っている人に会える。
私はどうなのか。
常に嘘をついて逃げてこなかったか。
うまくいくことがあたりまえだとおもっていなかったか。
うまくいかないことから逃げていなかったか。
今まできっと私は逃げていた。
だけどもう逃げないよ。
そう、思いました。
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