村上春樹
*この記事はネタバレを含みます
久しぶりに読み返してみた。短いけど、悲しい話です。
ぼくはこの小さなギリシャの島で、昨日初めて会ったばかりの美しい年上の女性と二人で朝食をとっている。この女性はすみれを愛している。しかし性欲を感じることはできない。すみれはこの女性を愛し、しかも性欲を感じている。ぼくはすみれを愛し、性欲を感じている。すみれは僕を好きではあるけれど、愛していないし、性欲を感じることもできない。ぼくは別の匿名の女性に性欲を感じることはできる。しかし愛してはいない。とても入り組んでいる。まるで実存主義演劇の筋みたいだ。すべてのものごとはそこで行き止まりになっていて、誰もどこにも行けない。選ぶべき選択肢がない。そしてすみれが一人で舞台から姿を消した。
ギリシャの島で、煙のように消えてしまったすみれ。
恋人にはなれなかったにせよ、ぼくにとって大切な大切な友だちだった。
その大切な友だちを失うこと。
大切な人間を失うということはどういうことなのか。
正しいとか誤っているとかではなく、とにかく人は人と突然出会い、そして突然失ってしまうのだ。
失ってしまったもの-究極的には死者だが-、と私はどうつながろうとすればいいのか。
小説の最後。
ぼくは夢を見る。ときどきぼくにはそれがただひとつの正しい行為であるように思える。夢を見ること、夢の世界に生きること-すみれが書いていたように。でもそれは長くはつづかない。いつか覚醒がぼくをとらえる。
ぼくは夜中の三時に目を覚まし、明かりをつけ、身を起こし、枕もとの電話機を眺める。電話ボックスの中で煙草に火をつけ、プッシュ・ボタンでぼくの電話番号を押しているすみれの姿を想像する。髪はくしゃくしゃで、サイズの大きすぎる男物のヘリンボーンのジャケットを着て、左右違った靴下をはいている。彼女は顔をしかめ、ときどき煙にむせる。番号を正しく最後まで押すのに時間がかかる。でも彼女の頭の中にはぼくに話さなくてはならないことが詰まっている。朝までかかってもしゃべりきれないかもしれない。たとえば象徴と記号の違いについて。電話機は今にも鳴り出しそうに見える。でもそれが鳴ることはない。ぼくは横になったまま、沈黙を続ける電話機をいつまでも眺めている。
申し分のないエンディングのように思われる。しかし小説はつづく。
でもあるとき電話のベルが鳴りだす。ぼくの目の前で本当に鳴りだしたのだ。それは現実の世界の空気を震わせている。ぼくはすぐに受話器を取った。
「もしもし」
「ねえ帰ってきたのよ」とすみれは言った。とてもクールに。とてもリアルに。(p306)
(中略)
そして唐突に電話が切れた。ぼくは受話器を手にしたまま、長い間眺めている。受話器という物体そのものがひとつの重要なメッセージであるみたいに。その色やかたちに何か特別な意味が込められているみたいに。それから思いなおして、受話器をもとに戻す。ぼくはベッドの上に身を起こし、もう一度電話のベルが鳴るのを待ちつづける。壁にもたれ、目の前の空間の一点に焦点をあわせ、ゆっくりと音のない呼吸をつづける。時間と時間のつなぎ目を確認しつづける。ベルはなかなか鳴りださない。約束のない沈黙がいつまでも空間を満たしている。しかしぼくには準備ができている。ぼくはどこにでも行くことができる。
そうだね
そのとおり
ぼくはベッドを出る。日焼けした古いカーテンを引き、窓を開ける。そして首を突き出してまだ暗い空を見上げる。そこにはまちがいなく黴びたような色あいの半月が浮かんでいる。これでいい。僕等は同じ世界の同じ月を見ている。僕等は確かにひとつの線で現実につながっている。ぼくはそれを静かにたぐり寄せていけばいいのだ。(p307)
引用が長くてすみません。
失ってしまったものとどうつながるか。
小説をここまで読み続けると、ことばにはできないけれど、確かにつながる方法がある、という確信を私は得ることができる。
ことばにできないというのもずるいので、失敗を覚悟でことばにしてみると、それは「夢」を見る、という能力ではないか。
しかも目覚めながら。夢の世界では失った人々と自由に会うことができる。
つながっていられる。
しかし「いつか覚醒がぼくをとらえる」のである。
そのときの喪失感はさらに強い。
だが、覚醒しながら夢を見られるとすればどうか。
そんな能力はない?
幻視者か?
うーん。
そういうことではないんだが、うまくいえないなあ。
「ぼく」が大学生の夏休みにひとりで旅行しているときに知り合った年上の女性との話をすみれに話しているときに出てくる会話。
「その話のポイントはどこにあるのかしら?」とすみれはそのときたずねた。
「注意深くなる、というのが話のポイントだよ、たぶん」とぼくは言った。「最初からああだこうだとものごとを決めつけずに、状況に応じて素直に耳を澄ませること、心と頭をいつもオープンにしておくこと」
相変わらずうまくは言えないが、たとえば別れた人からもらった腕時計を見るたびにその人を思い出す、というまったくつまらないことだって、考えてみると失った人とつながっていると言えるのじゃないだろうか。
ただの時計、と突き放すのではなくて、人との関係が満ちあふれている、と言うことに気付くこと。
意外とひとりではないということ。
それが覚醒しながら夢を見るということだろうか。
かなり無理があるな。
村上春樹がそんなことを言おうとしているのかは知らない。
たぶんまったく違うんだろう。
やはり、そもそもそんな風にことばにすべきことではないのでしょうね。
ことばにならない力をこの小説は与えてくれる。
悲しいけれども希望が湧く小説です。
[amazonjs asin=”4062731290″ locale=”JP” title=”スプートニクの恋人 (講談社文庫)”]