『ヴェネツィアに死す』マン 岸美光訳 (光文社文庫)
学生の頃に新潮文庫で『ベニスに死す』を読み、そのあとヴィスコンティの映画を見た。
老人が少年に恋して死んでいく、という筋しか覚えていなかったが、映画で夏の海岸で老人が白いスーツを着ている姿が印象に残っていた。
友人は少年を追い求める老人のシーンしか出てこないこの映画を早送りで見たと言い、それじゃあもったいないぜ、と私は説教したものだが、思い起こすと私も映画を観ている間は眠気をこらえていたように思う。
光文社文庫で新訳が出たので久しぶりに読んでみたが、それはやはりある種退屈なものに違いなかった。
そもそも訳者の解説すら次のように始まる。
長年仕事一筋、律儀に働いて初老を迎え、ふと旅心に誘われ、出かけた先で恋に落ちる。忘れていた胸の高鳴りに驚き、喜び、混乱し、一度は抵抗してみるもののそれが恋だと認めてからは破滅の道をまっしぐら。--こう書いてみるといかにも安直なテレビドラマの筋書きのように思えます。舞台はヴェネツィア、海と陸が交わり、東洋と西洋が出会い、傲慢な精神と官能の美が抱き合う迷宮と仮面とアバンチュールの町。恋した相手が美少年だというのはスキャンダルでしょうか。少女漫画の世界で美少年の同性愛がうける今日、物語の世界ではそれはもうスキャンダルとしての起爆力を持ちません。場所とモチーフの選択は、基本の筋書きを深めるというより、むしろ陳腐でチープな印象を付け加えます。書かれてからほぼ一世紀を経て、この物語は今日急速に古びつつあるように思われます。(p150)
こんな解説を読むと急速に読む気をなくしそうだ。
もちろん解説は続いて、この小説にはホメロスやプラトンが巧みに引用され、神話的な世界に導いている、と教えてくれるわけだが。
それにしてもホメロスやプラトンのことがあまり分からない私にはやはりちょっと難しいところもあり、若い頃ならすっ飛ばして読んだだろうが、けっこう几帳面に読んでみた。
したがって短い小説だが読むのに時間がかかった。本筋とは関係ないところが面白かったりして。
主人公のアッシェンバッハは五十歳を過ぎた小説家で、しかも国民的大家だ。
マンがこの小説を書いたのが37歳のときで、すでに作家としての名声は手にしており、彼自身の一部分を当然モデルとしているのだろう。
面白かったのはアッシェンバッハの生活を描いた部分。
四十歳、五十歳は普通他の人なら浪費し、浮かれ騒ぎ、大きなプランの実行を平気で先延ばしする年齢なのだが、彼はその年で決まった時間に胸と背中に冷水を浴びて一日を始め、銀の燭台に日本の高い蝋燭を立てて原稿の先に起き、睡眠で養った力を、厳密細心に集中した朝の二、三時間、芸術に捧げたのである。(p20)
このへんの記述はまるで村上春樹を思わせる。
村上春樹も朝5時に起きて数時間を小説の執筆に当てている。
あとは走ることで身体を鍛えているらしい。
不健全な精神は健全な肉体に宿る、と村上は言うが、たぶん継続して小説を書いていくためには、規則正しい生活は不可欠なのだろう。
このへんは大きなプランの実行を平気で先延ばしする私は反省するところである。
で、旅に出たアッシェンバッハはホテルでポーランド人の美少年タッジオに出会い、恋をする。そしてタッジオからインスピレーションを得て散文を書く。
その数時間、彼はブラインドの下の粗末なテーブルに向かい、偶像を目におさめ、その声の音楽を耳に聴きながら、タッジオの美に従って小さな評論を、--あの一ページ半のより抜きの散文を書いたのである。(中略)不思議な時間だった!妙に神経を消耗させる努力!精神と肉体の奇妙な生産力に満ちた交わり!アッシェンバッハが仕事を片付けて浜辺を離れたとき、彼は自分が疲労困憊し、ガタガタになっているのを感じた。そして放蕩の後のように、良心が悲鳴を上げているような気がした。(p92)
このあたりはマンの小説家としての秘密みたいなものがそのまま出ている部分だろう。
社会的に認められない欲求や無意識的な性的エネルギーが、芸術的活動・宗教的活動など社会的に価値あるものに置換されること(「広辞苑」)、すなわち昇華について書かれているわけだが、その内実というのは実のところまったく性的なものであるのだ。
常に日常の欲求を昇華しているわけではないにしても、これでは小説家をはじめとした芸術家はひどく疲れそうである。
さて、ヴェネツィアにコレラが流行し、おそらくはアッシェンバッハはそれに罹患することで死んでいく。
海岸のタッジオを椅子に座ってみながら死んでいくラスト。
男の頭は椅子の背もたれに預けられて、遠い彼方を歩む少年の動きをゆっくりと追っていた。この瞬間、その頭が起こされた、いわばその視線を迎えようとするように。そして胸に垂れた。そのため眼が下から見上げる形になったが、その顔は深いまどろみの、萎えて内部に落ち込んだ表情を示した。しかし男は、青白い愛すべき魂の導き手があの遠い向こうから自分に微笑みかけ、手招きをしているような気がした。魂を導くものが、腰から手を離し、遠い外を指さし、多くのものを約束する途方もない空間の中に、ゆっくりと先頭を切って動いていくような気がした。そしてこれまで何度もそうしたように、その後に着いていこうとした。(p148)
難しいけど美しい文章。
恋に溺れながら死んでいく彼は決して滑稽ではない。
髪の毛を染めたりして若作りをして死んでいく彼を笑うことが出来ないし、むしろそうやって死んでいくことが幸せさえ思える。
あらすじだけ聞けば滑稽な悲劇だが、少年愛、ニーチェ、アテネの風景などがちりばめられたイメージがいつのまにかこの短い小説を神話的なところへ持って行っているのだ。
すみません。
解説の受け売りです。
大江健三郎が誰かに、小説を勉強するのであればトーマスマンの短編を読みなさい、と言われたエピソードを語っていたことがあったが、この小説も読み返すと確かにうまい。
今度はマンの短編集を読んでみよう。
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