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『生物と無生物のあいだ』を読んで自分の「流れ」を考える

『生物と無生物のあいだ』福岡伸一
タイトルは「生物と無生物のちがい」みたいなものと考えればよいのだろう。

 もし生命を「自己複製するもの」と定義するなら、ウイルスはまぎれもなく生命体である。ウイルスが細胞に取りついてそのシステムを乗っ取り、自らを増やす様相は、さながら寄生虫と全く変わるところがない。しかしウイルス粒子単体を眺めれば、それは無機的で、硬質の機械的オブジェに過ぎず、そこには生命の律動はない。
ウイルスを生物とするか無生物とするかは長らく論争の的であった。いまだに決着していないといってもよい。それはとりもなおさず生命とは何かを定義する論争でもあるからだ。本稿の目的もまたそこにある。生物と無生物のあいだにはいったいどのような界面があるのだろうか。私はそれを今一度、定義してみたい。
結論を端的にいえば、私は、ウイルスを生物であるとは定義しない。つまり生命とは自己複製するシステムである、との定義は不十分だと考えるのである。(p37)

では、いったいどのような定義とすべきなのか。

生命とは動的平衡(ダイナミック・イクイリブリアム)にある流れである。(p167)

というのが著者の考えである。

どういうことか。細胞やらが死んで新たな細胞ができて、新陳代謝がなされるから、5年前の私と今の私では細胞としては違うもんだよ、みたいなことをどこかでぼんやりと聞いたことがあるような気がするが、おおざっぱに言うとそういうことだ。

ただ、マウスを使った、餌の中の物質が身体にどれだけ取り込まれて、どれだけが取り込まれないか、という実験で判明している事実というのは細胞とか言うレベルではなく、もっと小さな分子レベルの話。

 体内に取り込まれたアミノ酸(この場合はロイシン)は、更に細かく分断されて、改めて再分配され、各アミノ酸を再構成していたのだ。それがいちいちタンパク質に組み上げられる。つまり、絶え間なく分解されて入れ替わっているのはアミノ酸よりも更に下位の分子レベルということになる。これは全く驚くべきことだった。
外から来た重窒素アミノ酸は分解されつつ再構成されて、ネズミの身体の中をまさにくまなく通り過ぎていったのである。しかし通り過ぎたという表現は正確ではない。なぜなら、そこに物質が「通り過ぎる」べき入れ物があったわけではなく、ここで入れ物と呼んでいるもの自体を、通り過ぎつつある物質が、一時、形作っていたに過ぎないからである。
つまりここにあるのは、流れそのものでしかない。(p161)

何故このようなシステムを生命がとっているのか。

エントロピー増大の法則に抗うのは、強度の高いシステムを作ることではなく、時間とともにエントロピーが増える構成要素をあえて捨てて、あたらしいものを作り出し続ける、ということがもっとも効果的だからだという。

 エントロピー増大の法則は容赦なく生体を構成する成分にも降りかかる。高分子は酸化され分断される。集合体は離散し、反応は乱れる。タンパク質は損傷を受け変性する。しかし、もし、やがては崩壊する構成成分をあえて先回りして分解し、このような乱雑さが蓄積するよりも早く、常に再構築を行うことができれば、結果的にその仕組みは、増大するエントロピーを系の外部に捨てていることになる。
つまり、エントロピー増大の法則に抗う唯一の方法は、システムの耐久性と構造を強化することではなく、むしろその仕組み自体を流れの中に置くことなのである。つまり流れこそが、生物の内部に必然的に発生するエントロピーを排出する機能を担っていることになるのだ。(p167)

例えば現実の組織(職場など)についてアナロジーで語れる、と貧乏くさく考えたりすることもできる、よい文章だ。

しかしそれより、自分自身の身体がそういうシステムになっていることに、さわやかさとか、それこそ流れみたいなものを感じて、少しいい気分になった、というところだろうか。

本筋ではないが、野口英世の業績が今ではほとんどが間違ったものとして全く顧みられていない、という話は何となくショックだったなあ。

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