『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』『子猫が読む乱暴者日記』中原昌也
続けて読んだのでひとまとめに。
いずれも短編集だけど、何度か同一と思われる登場人物が現れる。
だが、別にいわゆる短編連作、というわけではない。
そもそも、高橋源一郎と保坂和志という、私にとっての現代小説のもっとも敬愛する書き手の三人のうちの二人が大絶賛していなければ、中原昌也なんか読まなかっただろう。
そして読んだとしても決して「面白かった」とか言えるわけがない。
これがわかりますか?といういわば踏み絵みたいなものだから。
ただ、読んでいると、私は楽しくはならなかったけど、とても気楽になった。
どうして気楽になっているのか読みながら考えてみたが、思いついたことは作者の存在のうっとうしさみたいなものがない、ということだろうか。
一般に小説というものは伏線(物語、といってもよい)があって(それが意識的であろうとそうでなかろうと)、登場人物はその伏線のために奉仕させられているものではないだろうか。
読み手は、次にこうなるとかこうならない、とかこの人は死ぬんだろう、とかいろいろ考えながら読んでいく。
いままで読んできた小説というものはみんなそうだったからだ。
しかし中原昌也の小説では登場人物はまるで使い捨てのように忘れ去られていく。
例えばAという人物を中心にしていたとすると、その場面にBが現れたら、まるでAのことは忘れたようにB視点で小説が進んでいくというように。
そしてAについてはもう言及されることはないのだ(Aに戻ってくるものもいくつかあったが、それは何となく風通しが悪い気がした)。
結局普通の小説ならば、Aを引き立たせるためにBを持ってくる、なんていう思考(しつこいが無意識にしてもそれは必ずある)があって、それが小説を小説たらしめているはずなのだが、それが中原昌也の小説にはない。
それがすがすがしいのだ。
だから説教じみた言葉で終わってもいいし、ぶっつり切ってもいい。
登場人物が伏線に奉仕しないように、小説じたいがなにかに奉仕しようという気が全くないから。
作者が『子猫が読む乱暴者日記』のあとがきで書いているようにこの小説は「何の役にも立たない」だろう。
何の役にも立たなくていい、というのが小説なのだと思うけど。
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