『神曲 煉獄篇』ダンテ・アリギエーリ(寿岳文章訳)
結局煉獄編も続いて読んだ。
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地球をくぐり抜けて反対側に出てきたダンテとウェルギリウスはこんどは煉獄山を登る。
ここでは浄罪をする人々の亡霊が罪の内容に応じてそれぞれの高さにいて、それを見ながら進んでいく。
パターン的には地獄篇と同じようなもの。
ダンテが亡霊を見ていると、亡霊がダンテに影があることに驚き(ダンテは生きているから。亡霊の身体は日光を透過させるので影ができない)、あんたは何者だ?と聞いてくる。
ダンテは私はベアトリーチェのもとに生きながら向かう者、で、あんたこそ誰さ?と問うと、亡霊が過去にどういうもので、どういう罪をおこない、どういう浄罪をしているのかを説明する。
これをずうっと繰り返していく。近代の小説って、こういう繰り返しを省略する傾向にあると思うけど、で、実際読んでいて「また同じかよ、もういいよ」と最初は思っていたんだけど、しつこく同じパターンをしているとそのうちおかしみというか、これって人生だよなあ、と感じてしまう。
日常ってそんなに毎日が変わるものではないですよね。
そりゃ昨日と今日は違うし、同じことは起らない。
だけどやっぱり繰り返しなんだよなあ。こういう繰り返しを自分のためにも読者のためにもあえて続けることで厚みが生じる気がしました。
で、後半トーンが変わる。それまでウェルギリウスがずうっとダンテを引っ張って来たけど、もうダンテ、あんたが先頭に立って歩きなさい、というところでは、『我が青春の旅立ち』でそれまでリチャード・ギアにきびしくしていた鬼教官が自分が逆に部下になって送り出す、と言うところを連想する。
このへんからかな。
終盤、第29歌(煉獄篇は天国篇と同じで全33歌。地獄篇が34歌なので、総計100歌となる)あたりからがらりと変わり、私自身はまだ見たことないけどオペラというかミュージカルというか、天使やら馬車やら出てきて花吹雪が舞い、大トリベアトリーチェが登場するあたりでうわーっと興奮してしまう感じになる。
自分の中ではベートーベン第九の『歓喜の歌』の合唱の部分がBGMで鳴っていました。
かっこいい。
ベアトリーチェはダンテが子供の頃出会ってその後青年期に再会したときに愛するようになった女性なんだが、彼女が別の男と結婚した後若くして亡くなり、永遠の女性となったという。
で、神曲でダンテを迎えに来たベアトリーチェはダンテに、私が死んだ後いろんな女に心奪われたりしたでしょ、それじゃ堕落じゃないのまったくもう、とすごい責めようで、ダンテも泣き出しちゃって、ある種の痴話げんかに見えますが、俗世の愛を超越した愛をダンテは描こうとしている(らしい。中沢新一の解説によれば)ので、こういう下世話なレベルから語るというのもとてもわかりやすいし、説得力がある。
そもそも神曲自体の構造が地獄から煉獄を登って天国へということで、いきなり天国を書かないということがひとつの作戦だったわけで、それがそれぞれのエピソードにも生かされている、ということなんだろう。
ダンテは自分のことを情けなく書いているところもなかなかかっこいい。
火をくぐらないと次のステージに行けないという場面で、無理無理、私にはできません、とまるで上島竜平のように尻込みをする。
じゃあ、私が、とはウェルギリウスは言わないが、熱くないよ、うそじゃないからさ、心配ないんだよ、と何度も何度もなだめすかしてやっとの思いで火をくぐり抜けたり、さっきのようにベアトリーチェにひどく叱責されたり。
少しは自分をかっこよく見せようと思っていいような気もするが、当時の実際の敵を『神曲』のなかでばっさばっさと斬っているダンテは自分についても客観的に見ているところはこれまたすごいところだ。
煉獄を脱けた。
ついに天国だが、煉獄の最後はちょっと意味が分からなくなってきたところも多い。
少し整理してから天国篇に進みます。
中沢新一の『愛の天体』という解説はすばらしい。
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