『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』野矢茂樹
野矢茂樹は好きな哲学者だ。
文章が平易だし、いつも遊び心を持って書いている。
比喩もおもしろい。
『論理トレーニング101題』とか『はじめて考えるときのように』とか、何冊か読んだ。
だけど、やっぱり論理学は難しい。
今まで論理学の本(三浦俊彦とか)は何冊か読もうとしては、挫折した。
簡単だよ、と誘い込まれるのだが、自分の頭が悪いのか、それとも論理が分からないのか。
いつも途中であきらめる。
そういえば、こんど読んだ本にも論理を共有しない人に論理を教えるのにはどうすればいいのか、という問題が出てくるが、結局私は論理がいつになっても分からないんだろう。
で、この本も昨年、一昨年と(たぶん)二度も挫折した。
だが、ウィトゲンシュタインは立ち向かわなくてはいけない壁。
がんばってみた。
一応最後まで線を引きつつ読んだけど、やっぱりよく分からなかったところがかなり多い(かなり、は女子高生調で)。
ただ、前期ウィトゲンシュタインの目指していたこと、『論理哲学論考』(以下『論考』)の仕掛け、目標はわかりやすい。
つまり今まで読んでいたラカンと「言語」ということでつながっている。
出発点は現実世界と日常言語である。この世界を行き、この言語に熟達している者のみが、『論考』の提示する道を辿ることができる。 ゴールは思考可能性の全体を明確に見通すことである。 そのため、日常言語を分析し、再び日常言語を構成するという往復運動を行なう。(p144)
もっと『論考』はむずかしいというか、わけが分からないと思っていた。
まだ読んだことないんだけど、アフォリズムの形式で捉えづらそうだと思っていたが、もっと明確な意図を持った本なのだなあ。
ただ、上記の実際の往復運動が全くと言ってよいほど分からない。
野矢さんもわかりやすく書いてくれているのに分からないんだよなあ(何度「分からない」と書いたでしょうか)。
しかし、「『論考』の向こう」という最終章で野矢さんが語り始める。
とにかくそこまでで理解したことは「思考可能性の全体を明確に見通」したうえで、その限界地点を内側から確認する、ということ。
しかしその外側、つまり思考不可能な地点にいる「他者」を無視することで『論考』は成立している。
それじゃだめだ、と野矢さんは言う。
語りえぬものについては、沈黙せねばならない。
というのが『論考』の結末だが、野矢さんはこう続ける。
いや、沈黙は何も示しはしない。私は語るだろう。ひとつの論理空間のもとで語り、他者に促され、新たな論理空間のもとでまた新たに語るだろう。そしてこの語りの変化こそが、他者の姿を示すに違いない。(中略) 語りきれぬものは、語り続けねばならない。(p280)
卑近な感想だけど、私自身がもっとフランクでオープンな人間になりたいと思う。
引きこもるほどの根性がないので、一応社会でそれなりに振る舞っているが、自分の論理空間、というと難しいが自分の世界自体を変化させたくないという気持ちがどこかにあり、そのためにどうもうまく語り続けることができないというか、いわばモノローグな会話しかできない。
しかし静的な状態では幸せな生き方はできないんだろうなあ。
他者、つまり自分の理解できない人、モノたちと会話できるようになりたい。
それはずっとおもっていたことだったから、野矢さんに後押しされたようでした。
[amazonjs asin=”4480089810″ locale=”JP” title=”ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む (ちくま学芸文庫)”]