『嵐が丘』E・ブロンテ 今読んでいるのは新潮文庫の鴻巣友季子訳『嵐が丘』。
『現代小説のレッスン』で水村美苗の『本格小説』について評論されていて、ついでにそのもとネタである『嵐が丘』についても触れられていた、というのが読むきっかけ。
『現代小説のレッスン』の『本格小説』の評論でいちばん面白かった部分。
「本格小説」=近代小説の語り手は、前近代の物語、例えば『三国志演義』や『水滸伝』みたいにそこへ講釈師が公然と姿を現しストーリーの展開を豪快に、暴力的にブン廻す─それこそ関羽が青龍刀を、張飛が蛇矛をブン廻すように─のではなく、また登場人物たちの振る舞いを受動的に観察=記述するのでもなくて、控えめな観察者でいながら同時にストーリーを盛んに煽り立ててやる存在でなければならない。(p220)
この煽り立てる者の典型が『嵐が丘』の女中であるネリーである、とし、その語り口を多層化しているのが『本格小説』なのだという。
『嵐が丘』はたぶん十数年前に読んだはずだが、構造についてなんか考えずに読んでいた。
ということで、とりあえず新しい訳でもあり読み直しているわけだけど、端的におもしろいし、読みやすい。
まだ三分の一くらいだけど、確かにネリーは煽情しているなあ。
要は第一の語り手(嵐が丘の近くに引っ越してきたロックウッドさん)にネリーが昔話を聞かせる、という形式なんだけれども、この「語り」の構造が自然と読ませる。
結局読者はロックウッドさんと同じ位置に置かれてネリーに話を聞かされているということになる。
しかも、ネリーは第三者ではなく、さっき言ったようにヒースクリフやら主要登場人物に絡んでいき、観察者のわりに結果的に重大な役目を演じている。
それが切実感を与えている。
読みやすさ、読みにくさというのはひとつには小説の構造が大きく作用するということがいまさらながらにして分かりました。
とりあえず楽しみつつ、もう少し読んでみましょう。
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