宇都宮輝夫 勁草書房
本書は、大学生向けの宗教学の入門書として書かれました。
宇都宮さんは「まえがき」で「本書は非宗教的な態度で対象を考察し記述している」といいます。
対象とはもちろん「宗教」のことです。
「宗教」とはいったい何なのか?。
自明なことに思えますが、これを規定するのが大変。
・宗教は「神崇拝」のことです→では、例えば仏教はどうよ。
・宗教は「超自然」の観念で定義できるのでは?→そもそも超自然ってなに?近代に生じてきた概念じゃないの?
・宗教は「死後存在・死後世界についての教説」のことだ→ブッダも孔子も死後の世界についての質問には答えなかったよ
などなど、一から徹底的に洗い直していきます。
宇都宮さんは、現代の多くの日本人は心のどこかで「宗教を信じるのは合理的・批判的思考力に欠けた人、その意味で愚かな人なのではないか」と思っているのではないか?といいます。
しかし、現代人はそもそもそんなに合理的なのでしょうか?
そして合理性ということはどういうことでしょう?
行動経済学やヴェーバーなどを援用して、合理性の概念自体をも見直していきます。
リチャード・ドーキンスは『神は妄想である』などで、宗教を激烈に批判しています。
そんなドーキンスに対しても宇都宮さんは容赦がありません。
ドーキンスは自然に対する無根拠恍惚を人に押しつけようとし、反対意見を排斥するのに相当熱心だからである。
ドーキンスが自然の構造に神的美しさを見て取る自然賛美の姿勢は、現代アメリカのインテリジェント・デザインと背中合わせである、といい、宗教批判していたはずのドーキンスが宗教に近づいている矛盾をつきます。
第6章「宗教の構成要素」から、やっと私が思っていたふつうの宗教学っぽい内容になります。
第8章「宗教の諸理論」は、ウィトゲンシュタイン、ミルチャ・エリアーデ、デュルケムなどの理論がコンパクトに紹介されています。
エリアーデはこてんぱんにやっつけられています。
世界宗教史について、現代で最も浩瀚な書を著したエリアーデではあるが、彼は論証とはいかなることであるかについて、理解を欠いている。(中略)彼の論証とは、自説を裏付けるのに好都合な事例をかき集めるという手法である。事例などというものは、その気になればいくらでも収集できる。彼には、論証の方法論についての自覚がかなり希薄なのではないかと疑わざるを得ない。
エリアーデってえらい宗教学者だと思っていたんだけど。
宇都宮さんが買っているのはデュルケム、ウィトゲンシュタインとピーター・バーガーといったところ。
デュルケムは読んでみたくなりました。
「宗教」ということで、ある程度ぼんやりとあいまいに許されてきたことを、ひとつひとつ検証していくプロセスが、ほんとうにおもしろい。
宗教学の本ではなく、推理小説のようです。
「非宗教的な態度」で記述していたはずの宇都宮さんが、とつぜん熱く語り出す部分があって、そこもまたいい。