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『内村鑑三 悲しみの使徒』

若松英輔 岩波新書

 

本書によれば、1867年(慶応3年)から1873年(明治6年)まで、なお大規模なキリシタンの迫害がされていたのだそうです。 明治に入ってもキリスト教の迫害があったのですね。

内村鑑三が生まれたのは1861年。 その後札幌農学校に進み、1878年に洗礼を受けます。 日本のキリスト教の禁制がようやく解かれて数年後の入信でした。 日本の近代のキリスト教の歩みと同じくして、内村の信仰の人生が始まります。

若松さんは以下の六つのトピックを中心に「彼の「回心」と、そこからほとばしるように発せられた思想と霊性の態度を追って」いきます。

1877 札幌農学校におけるキリスト教との接触 1891 「不敬事件」と妻かずの死、そして『基督信徒のなぐさめ』の執筆 1903 義戦論を捨て、非戦論、戦争廃止論へと立場を大きく変える 1912  娘ルツの逝去と死者論の深化 1918 再臨運動 1930 塚本虎二との訣別、逝去

年表を見ると実にさまざまなことが内村の周りでは起こっています(というか引き起こしている)。 抽出したこのトピックだけでもごつごつした人生だなあ、という印象を受けます。 そんな内村はどんな人物だったのでしょう。 弟子の藤井武が内村の死後に書いた文章を孫引きします。

先生は矛盾の多い方、矛盾だらけの方でありました。先生ほど矛盾に富んだ人格を私は知りません。したがって多くの人が先生に躓きました。近づく者ほどひどく躓きました。先生に親しんだ者にしてこの経験を有たなかった者が幾人ありますか。私は告白します、私自身がたびたびそれを繰返しましたことを。先生のために心を掻き裂かれて一晩泣いたこともありました。また先生ご自身のために悲しんで折り明かしたこともありました。本当に大きな躓きの石でありました。私にとってはむしろ不可解でした。(「私の見たる内村先生」)

弟子と何度も衝突し、破門に等しい別離を経験しながら、和解も繰り返す。 人間としても、なめらかというよりは、きっとごつごつした人だったのでしょう。 純粋すぎて、まっすぐすぎて、忖度しない生き方。 「誠実、真の心の単純さ」を持ち続けた人。 藤井は同じ文中のいっぽうで、こうもいうのです。 「内村鑑三は預言者であると申しましたならば、誰が反対しましょうか」と。

内村の霊性は「再臨」に結実します。 イエス・キリストがこの世にふたたび姿を現すことを「再臨」といいます。 「再臨運動」の中で内村は「再臨が今、まさに起こりつつある出来事であることを同志に向かって」語り、「信じ得ない者たちのために祈れ」と言ったのです。 なぜか。 「再臨は、キリストが、キリスト教を信仰する者にとっての神以上のもの、神の意味での普遍者であることを告げ知らせる」ことによって、「万人の新生」をもたらすものだったからです。 「再臨運動」は熱狂を生みましたが、しかし内村の思いとは裏腹に、人々は「終末的現象の到来」としてそれを受け取りました。 世界の終わりに救世主がふたたび現れ、病気は治り、奇蹟が起きる、というような受け止められ方。 思いとその受け止められ方の乖離から、内村は運動から距離を置くようになります。 しかし、若松さんは、内村はこの挫折を経て「預言者」になった、と考えます。 預言者は託された神の言葉を預かる者のことですが、「必ずしも言葉によって語らない」のです。 そして私たちは、それを読み取らなければいけない、と若松さんはいいます。

最後に若松さんは、内村の霊性に満ちた人生を振り返ります。

ここまで来て、私たちはふたたび、内村鑑三とは誰かという根源的な問いに立ち返る。彼は学者でもなく、哲学者でもなく、いわゆる宗教者でもなかった。しかし、神学者としても、文学者としても、哲学者、思想家、事業家としても、さらに宗教者としての秀逸のはたらきをなしたのも、事実である。彼は、神への、あるいは彼がいう「宇宙」への扉をキリスト者以外の人々にも開こうとした。そうした姿を見て藤井は「預言者」と呼んだのだろうが、それでもなお、彼の全貌を言い当てていない心持ちがする。彼はやはり、遅れてきたイエスの直弟子である使徒のひとりだったのではないだろうか。

そう思います。 著書を読み返さなくてはいけません。

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