魚川祐司 新潮社
『だから仏教は面白い』で基本的な考え方を押さえておくと、スムーズに読むことができます。
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ゴータマ・ブッダの教えは「異性とは目も合わせないニートになれ」という「非人間的」なものであったことを踏まえつつ、ゴータマ・ブッダによる初期の仏教、特にその中心的な問題である「悟り」について詳しくかつわかりやすく書かれています。
なぜ仏教にこれほどのヴァリエーションができたのか?という考察は面白いです。
「ゴータマ・ブッダの仏教(原始仏教)」の目標は、あくまでも修行者自身が現世における苦からの解脱という「自利」を目指すものでした。
一方、中国経由で日本で広まった「大乗」は「一切衆生を広く救済する自利・利他の完成者としてのブッダとなることを究極的な目標」としつつ、「自らをその過程にある菩薩として位置づける」のがその目標です。
「大乗」は「ゴータマ・ブッダの仏教」からは別の宗教に見えるし、というよりなぜ別の宗教としなかったのか?
ゴータマ・ブッダ自身の「悟り」、つまり解脱し、涅槃を覚知したという「事件」こそが、仏教の始点「ゼロポイント」なのだ、と魚川さんはいいます。
「ゴータマ・ブッダの仏教」においても、「大乗」においてもそのゼロポイント、いわば仏教の「本来性」に立脚地を置いています。
それを手放さない限りにおいては同じ「仏教」なのです。
その上で、衆生に対する関わり、つまり「現実性」へのアプローチの濃淡がヴァリエーションを生み出していったのだ、といいます。
その後「大乗」は日本を含む東アジアで変化を続け、「本来性」と「現実性」の区分すらなかったことに、つまり「悟り」という経験すら必要ないものになっていったそうです。
このあたりは日本の仏教について勉強不足で抽象的な理解なのですが、奥が深くて楽しそうです。
大乗は私たちがいわゆる「仏教」としてイメージするものですが、「ゴータマ・ブッダの仏教」の視点から見るといろいろ変なところがあるのです。
魚川さんは「ゴータマ・ブッダの仏教」が正しい仏教で、それ以外が誤った仏教だとはいいません。
しかし、たまにはこうやって自分たちが普遍的な仏教だと思いこんでいるのを相対化するのはおもしろいなあ。
業について説明する部分はわかりやすいです。
経典には「衆生とは業を自らのものとし、業の相続者であり、業を母胎とし、業を親族として、業を依りどころとするものである」とも言われているが、仏教の立場からすれば、衆生というのはまさにそのように徹底的に業に条件付けられたものであり、そうした業と縁起によって形成された枠組み(世間)の中で、条件づけられた欲望をもち、条件づけられた欲望の対象を見出して、それらを次から次へと追い求めながら、鼻先に人参をぶら下げられた馬のごとく、終わりのない「不満足」の生の繰り返しの中を、盲目的に走り続けるものである。
そして当然のことだが、この盲目的に走り続ける行為(業)そのものによって、このサイクルには「燃料」が供給され続けているわけだから、何か「流れに逆らう」ような行為を敢えて行わない限り、それが自然に止まると言うことはあり得ない。
この「苦なる輪廻状態」を「惑業苦(わくごっく)」と呼び、ここから抜け出すためにどうすればいいとゴータマ・ブッダが言ったのか?という話が本題なのですが、それはさておき、この文章で単語をいくつか入れ替えると、資本主義の現状分析としてふつうに読めるなあと思ってしまいました。
資本主義からの「解脱」について少し考えてもいいかもしれないですね。
「ゴータマ・ブッダの仏教」についての概説であると同時に、これまで語られてきた仏教への切れ味鋭い批評として読める、刺激的な一冊です。