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『ダンシング・ヴァニティ』

筒井康隆 新潮社

 

主人公の「おれ」は美術評論家の男です。
小説はこのように始まります。

「ねえ。誰かが家の前で喧嘩してるよ」浴衣姿の妹がおれの書斎に入ってきて言った。
書斎は裏庭に面しているので、前の通りの物音はほとんど聞こえない。それでもかすかに地底で大勢が呻き、叫ぶが如き不吉な音声が聞こえて来てはいたので、おれは妹に言った。「みんなを奥の間につれて行け。とばっちりを受けるとつまらんからな」

おれが「道路を見下ろすことのできる窓」に向かうと「明らかにやくざと知れる服装の粗暴な男たちと、体育会系の大学生と思える若い男たちの喧嘩」が見えるが、その喧嘩も終わります。

 四つ辻の方へ去っていく若者たちを見送ってやくざっぽい男たちは嘲り笑いながら、道路を右へと歩き出した。「もうでかい顔するなよな」「ざま見ろ」「大学生の分際でよ」「警察になんか行きやがったら承知しねえからな」
おれは窓を閉め、小部屋を出て階段を降りた。書斎に戻り、机の前に座って、書きかけの原稿を読み返し、続きを書きはじめた。書斎は六畳の和室で、机は小さな座机である。机の前には障子窓があり、裏庭が見渡せる。槇と金木犀があり、小さな花壇もある四坪ばかりの庭だ。
「ねえ。誰かが家の前で喧嘩してるよ」妹が廊下との境の襖を開けて入ってきた。
前の通りの物音はほとんど聞こえないのだが、それでもさっきからかすかに銃声のような物音が聞こえて来てはいたので、おれは妹に言った。「みんなを奥の間に連れて行け。とばっちりを受けるとつまらんからな」

おれが「障子窓を開けて家の南側の道路を見下ろ」すと「あきらかにやくざと知れる服装の粗暴な男たち」ふた組の喧嘩と見て取れたが、その喧嘩も終わります。

もう一方のやくざたちは四つ辻の方へ去って行く一団の背中にあわただしく嘲笑のことばを投げつけながら道路を西側へと走り去った。「もうでかい顔をするなよ」「ざま見ろ」「来るならいつでも来い」「ちんぴらが。馬鹿野郎め」
パトカーが来て、おれが目撃したことを知られたら事情聴取や何やかやで面倒だと思い、おれは窓を閉めて小部屋を出た。階段を降りて書斎に戻り、机の前に座り、しばらく気分を落ちつけてから、おれは書きかけの原稿読み返した。この短いエッセイを早く書き終えて、締切の迫っている浮世絵に関する評論にかからねばならない。単行本として出版される評論であって、それはおれの久しぶりの専門ジャンルの著書となる本なのである。
原稿を書いていると、妹が入ってきて言った。「ねえ。誰かが家の前で喧嘩してるよ」
書斎は奥の部屋なので前の通りの物音はほとんど聞こえないのだが、それでもかすかに重苦しく野太い罵声が聞こえてはきていたので、おれは妹に言った。「みんなを奥の間に連れて行け。とばっちりを受けるとつまらんからな」

このように微妙に異なるエピソードが微妙に異なる表現で反復されながら、物語は少しずつ進行していきます。
最初はその反復をまどろっこしく感じるのですが、そのうちにリズムが快感に変わってきます。
ラヴェルの『ボレロ』をもっともっと複雑にした感じです。
この反復は多元宇宙、平行宇宙を表現しているのだろう、と思いながら読んでいました。
しかし終盤で、人生の終わりのときに見るという「走馬灯」の感覚を表しているのではないか、ということに気づきます。
まだ死んだことはありませんが、死にゆく悲しみとか絶望感はまさにこのような手触りなのではないでしょうか。
こうもできたはず、ああもできたはず、しかしそれを叶えるにはもう時間はない。
それは死にゆく人の思いであると同時に、生きている私たちの思いでもあります。
エピソードをずらしながら反復するというアイデアは何とか考えることはできるかも知れません。
しかしこの小説は、アイデア以前に豊潤な内容がぱんぱんに詰まっているし、その表現技術も卓越しています。
筒井さんの小説、しばらく読んでいない間にこんなことになっていたとは。

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