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『カメラを止めるな!』を二度見た!

*この記事にはやはり若干のネタバレがあります。あたりまえだけど。

 

『カメラを止めるな!』をまた見に行きました。

一回目を見てから4日後。

これほど短いスパンで二回目を見るのは一昨年の『シン・ゴジラ』以来です。

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『シン・ゴジラ』はもちろんおもしろかったこともありますが、セリフが高速すぎて初見では内容がきちんと理解できず二回目を見に行きました。

『カメラを止めるな!』はネタバレした状態で見てもおもしろいのだろうか、という興味があり、二回目を見ることにしました。

結果としては残念なことですが、やはりおもしろかったのです。

 

映画中の映画(テレビ番組)『One Cut of the Dead』。

一回目見たときはこれは何なのだろう、リアルなのか嘘なのか、などと探りながら見ていましたが、二回目ではつい笑ってしまうことになります。

映っていないところでの「ぽん」の声にはやられます。

笑うと「おれはネタを知っているんだ」といういやらしい客になるのでがまんしていましたが。

 

そしてわかっているのに泣けてしまうエンディング。

すばらしい。

どうして二回見てもこんなにおもしろいのか。

 

配役も音楽も編集もすばらしいのですが、特に私は「日暮監督」に自分を感情移入してしまいます。

気弱な男。

そして夢を見ることを忘れていた男が再び挑戦する話。

この映画は『ロッキー』だとどこかに書いてありましたが、まさにある種のスポ根もの。

そして一方ではだめだめな人々が、一致団結して戦っていく話でもあります。

そういう話って基本的に苦手。

こんなことをそのまま描いても、観客の心には届かなかったでしょう。

それを可能にしたのが、「映画を撮る映画を撮る」という構造。

 

小説には「メタフィクション」というジャンルがあります。

書かれた小説自体に言及していくことで、書くことや読むことの問題を提示するものです。

ただ「メタフィクション」が濫造された結果、いまや書く切実さを失っています。

批評家の佐々木敦さんは「パラフィクション」を提唱しています。

私の考えでは、それはメタと呼ばれてきた回路の軸足を、思い切って「作者」から「読者」へと引き渡すということである。

 

読まれるたびに新たに生成し、そして生成し続ける小説。生成し続ける小説と言い換えても構わない。

私は佐々木さんがいう「パラフィクション」をきちんと理解できていないのですが、「作り手」から「受け手」にこのフィクションの軸足が移っている、という点では『カメラを止めるな!』はパラフィクションなのかもしれない、と思いました。

この辺はもう少し研究が必要です。

 

とにかく、テーマと構造ががちっとはまったすばらしい脚本です。

私はこの映画を見てから、まともに本が読めないでいます。

映画の力にねじ伏せられた感じ。

しかし、この映画を作るにあたって上田監督はまちがいなく脚本を「書いた」のです。

「書く」ことにもまだまだ力はあるのだ、ということも考えました。

 

ところで二度目に見て気づいた『One Cut of the Dead』のエンドロール。

監督の日暮隆之とともに、放送2時間前に出演が決まったはずの日暮晴美の名前がクレジットされています。

もちろん放送までに2時間あったのだから、名前を入れ込むことは可能なのかもしれないのですが、けっこうむりがあるのでは、とも思いました。

それよりは、ゾンビチャンネルで放送された番組が評判となり、のちに劇場用映画になったものをわれわれがメイキングとともに見ているというのはどうだろう、と妄想しました。

こんなふうに、あとからいくらでも楽しめるところもこの映画のすごいところではないかと思います。

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