余華 河出書房新社
中国のことを考えようとすると、他の国のことを考えるよりずっと難しい。
長い歴史があるし、近代からの遺恨は解決されていない。
あまりにめんどくさいので考えないようにしたり、ニュースを見ないようにしたりしてしまいます。
これではいけないと、中国の小説家が中国について語ったコラムを集めたこの本を読むことにしました。
先日、余華さんの小説『血を売る男』を読みましたが、文化大革命などに翻弄される人々をユーモアをまじえた筆致で描いていてすばらしかった。
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この本でも「ここが変だよ中国人」的なことを、ユーモアと批判を折り混ぜながら書いています。
こんなことまで書いても平気なのだろうか?と思って調べてみると、やはりこの本は中国では出版できないらしい。
例えば、まさに「検閲」についても書いています。
映画>新聞>テレビ>出版の順で検閲が厳しいそうです。
インターネット上で広がるデマ、政府の嘘の常態化。
階級がなかった時代に階級闘争を奨励され、貧富の格差が開き階級が生まれた現代では逆に階級闘争を忘れろといわれること。
中国の国民は貧しいので海賊版は必要悪なのだ、といわざるを得ない作家。
天安門事件の日である「6月4日」を「5月35日」と表記して、インターネット上の検閲から逃れようとするネット民。
中国の未来について、余華さんはこう言います。
したがって中国の未来には、民主か革命か、二つの道しかないと思う。いずれにしても、道のりは遠い。一つには、共産党が自ら特権を手放すことはないだろうから。追い詰められた状況の中で、少しずつ放棄することになる。また、政府が莫大な予算をつぎ込んでいる安定維持の現状の下で、バラバラになっている箸たちが結集するのはかなり難しい。(引用者注:民衆を箸にたとえている)
厳しい「安定維持」という名の抑圧の中でも、こういう主張を中国の人びとは何とかして手に入れて読んでいます。
余華さんは「道のりは遠い」と言いますが、分断されている中国の民衆がそれこそネットなどで団結することがあったら。
私が生きているうちに、「民主」か「革命」があるのでしょうか。
そうなったときには、今よりも日本と中国がわかり合える関係になればいい。
ただその頃、世界はたいへんな混沌に包まれていることになっていそうですが。
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