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『京都ぎらい』

井上章一 朝日新書

2016年の新書大賞を受賞したという本を、ようやく読みました。

話題にのぼっていたので、事前に情報が入ってきていました。

宇治に住む井上さんが、京都の真ん中に住む人々からそこは京都じゃないよね、的にばかにされる、という話。

実際に読んでみると、思っていたよりもずっと強い書き方なので少したじろいでしまいます。

井上さんが学生の頃杉本家住宅の調査で、九代目当主である杉本秀太郎(フランス文学者)に面会した際、杉本から田舎者扱いされた話。

また、梅棹忠夫からも嵯峨の言葉をばかにされた話。

そういったあざけりが井上さんに差別意識をうえつけた結果、「洛中」からさらに離れた「亀岡や城陽を見下す、おろかな人間になっ」てしまったこと。

ふわっとしている井上さんの文体だから読み進められますが、書かれていること自体には何の救いもない。

笑いでなんとかできないのだろうか、とも思いましたがそもそも笑える話でもないですね。

外から見れば、おなじ京都だろう?と思ってしまいますが、差別はこういう繊細な違いから生み出されるのかもしれません。

ヨーロッパからみれば、おなじアジアだろう?と思われているはずなのに、隣国なんかとぜんぜん違う!と言いたくなるのとおなじ構造でもあります。

私は井上さんのように、住んでいるところに対する愛着も恨みもありません。

父親の仕事の都合で、子どもの頃引っ越しを繰り返していたことが影響していると思います。

居住地に関してばかにされてもよくわからないだろうし、逆に住んでいる場所で誰かをばかにすることもあまりなさそうです。

別に差別に対して意識が高いわけではなく、単に「わからない」。

そのせいで、逆に無意識に誰かを排除したりすることはあったのかもしれないし、今後あるかもしれない。

現代日本ではあまり語られていない「差別」の話は、そんなことまで考えさせる材料にもなります。

といいつつ、この本は差別話よりあとのほうがおもしろい。

僧侶が僧服で京都の花街に現れる話。

寺の拝観料が無税であるのはおかしいのではないかという話。

天龍寺が後醍醐天皇の霊を鎮めるためにできたという説から、近代において敗者を鎮めるための施設ができていないことに言及する部分はすてきです。

続編も出ているようなので、ほとぼりが冷めた頃読むことにします。

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